炎の魔法陣 銀の共鳴3 岡野 麻里安   目 次  序 章  第一章 無限と永遠  第二章 |剣《つるぎ》の|神《しん》|霊《れい》  第三章 |星《ほし》|月《づく》|夜《よ》の|街《まち》で  第四章 |闇《やみ》|舞《まい》  第五章 |鎌倉炎上《かまくらえんじょう》  第六章 金目の|妖獣《ようじゅう》  第七章 夢の|奥《おく》|津《つ》|城《き》  『銀の共鳴』における用語の説明   あとがき     登場人物紹介 ●|鷹塔智《たかとうさとる》 [#ここから1字下げ]  十六歳の|超《ちょう》一流|陰陽師《おんみょうじ》。元JOA(財団法人日本神族学協会)職員だが、|呪《じゅ》|殺《さつ》を|請《う》け|負《お》うJOAの姿勢に失望し、脱会。|魔《ま》の|盟《めい》|主《しゅ》・|緋《ひ》|奈《な》|子《こ》に|記《き》|憶《おく》を|封《ふう》じられ|昏《こん》|倒《とう》したところを、|京介《きょうすけ》に救われる。普段は周囲の|庇《ひ》|護《ご》|欲《よく》をそそる美少年だが、記憶の底に眠る陰陽師としての力を発揮すると、|怜《れい》|悧《り》な|美《び》|形《けい》に|変《へん》|貌《ぼう》。|汚《けが》れ|人《びと》である祖父・|虎《こ》|次《じ》|郎《ろう》の最後の儀式に参加するため、|鎌《かま》|倉《くら》を訪れる。 [#ここで字下げ終わり] ●|鳴海京介《なるみきょうすけ》 [#ここから1字下げ]  十七歳の高校生。ひょんなことから智と出会い、行動を共にすることに。超常現象は死ぬほど嫌いだが、智を守るために命を投げだしかねない一面もあるため、智から信頼を寄せられる。|降《ごう》|魔《ま》の|利《り》|剣《けん》・|天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》を扱い、智を守ることのできる存在であるが、剣を使いすぎると|寿命《じゅみょう》が短くなることを知って苦悩。智に強く言われ、天之尾羽張の使用をやめようとするが……。 [#ここで字下げ終わり] ●鷹塔|虎《こ》|次《じ》|郎《ろう》 [#ここから1字下げ]  智の祖父。大地の汚れを|浄化《じょうか》しながら全国を巡る汚れ人。死期が近づいている。 [#ここで字下げ終わり] ●|時《とき》|田《た》|緋《ひ》|奈《な》|子《こ》 [#ここから1字下げ]  JOAを|陰《かげ》で|操《あやつ》る魔の盟主。カリスマ性のある|冷《れい》|酷《こく》な少女で、智の幼なじみ。 [#ここで字下げ終わり] ●|左《さ》|門《もん》|道《みち》|明《あき》 [#ここから1字下げ]  鎌倉東部の暴力団|黒《くろ》|部《べ》|組《ぐみ》の組員。組関係の退魔・呪殺を行う|呪《じゅ》|禁《ごん》|師《じ》でもある。 [#ここで字下げ終わり] ●時田|忠《ただ》|弘《ひろ》 [#ここから1字下げ]  緋奈子の|従兄《い と こ》にあたる|心霊治療師《サイキック・ヒーラー》。時折、エメラルドグリーンの|邪《じゃ》|眼《がん》を|覗《のぞ》かせる。 [#ここで字下げ終わり] ●鷹塔|夏《なつ》|子《こ》 [#ここから1字下げ]  智の祖母。全国を巡る虎次郎に付き従って生きてきた|優《やさ》しく|穏《おだ》やかな老女。 [#ここで字下げ終わり] ●|紅葉《も み じ》 [#ここから1字下げ]  智の|式《しき》|神《がみ》の一体で、戦闘専門。一見|軽《けい》|薄《はく》だが、腕は確か。必殺技は「|魔《ま》|斬《ざん》|爪《そう》」。 [#ここで字下げ終わり] ●|黒《くろ》|部《べ》|銀《ぎん》|次《じ》 [#ここから1字下げ]  暴力団黒部組の組長。汚れ人の心臓を|狙《ねら》い、虎次郎の元に左門を|派《は》|遣《けん》する。 [#ここで字下げ終わり] ●|柴《しば》|田《た》|靖《やす》|夫《お》 [#ここから1字下げ]  男らしさに|憧《あこが》れて|極《ごく》|道《どう》の世界に入ってきた少年。左門をアニキと呼んで|慕《した》う。 [#ここで字下げ終わり]     序 章  真夏の太陽が照りつけていた。  古い神社の|境《けい》|内《だい》。  |社《やしろ》の周囲には、伸びるにまかせた雑草が|生《お》い茂り、|参《さん》|道《どう》の|石畳《いしだたみ》の|隙《すき》|間《ま》からもタンポポが|生《は》えている。  緑の水をたたえた小さな池が、社の横にあった。  池には、|睡《すい》|蓮《れん》が咲いていた。  ひらり……と白いものが、|智《さとる》の頭上をかすめて飛んでいく。  |紋白蝶《もんしろちょう》だ。 「あ、ちょうちょ」  小さな智は、|捕虫網《ほちゅうあみ》を振りまわし、走っていく。  白い|靴《くつ》、|紺《こん》|色《いろ》の半ズボン、白いTシャツ。  まだ、四つくらいの頃だ。  澄んだ目に、太陽の光をいっぱい|映《うつ》して、緑のなかを駆ける。  紋白蝶は、アザミの花にとまって、羽を閉じた。  |蜜《みつ》を吸いはじめる。 「えーいっ!」  体の二倍はある捕虫網をぶんと動かす。  パサッ……。  |狙《ねら》いがはずれて、蝶は飛びたった。 「あらあら、智ちゃん。蝶をいじめちゃダメよ」  優しい声が、呼びかける。  振り返ると、六つくらいの少女が立っていた。  祭りの|浴衣姿《ゆかたすがた》だ。  |漆《しっ》|黒《こく》の髪を背中にたらしている。  少女の名前は、|時《とき》|田《た》|緋《ひ》|奈《な》|子《こ》。  智の|幼《おさな》なじみで、この町のはずれの古い屋敷に住んでいる。  親同士が知り合いだった関係で、二人は、いつの頃からか、友達になった。 「ピヨちゃん」  智は、ニッコリ笑った。 「違うもん。ボク、ちょうちょ、いじめてないもん。つかまえたら、また放してやるもん。そうするとね、ちょうちょが、ありがとうって言うんだよ」 「でもね、智ちゃん、|蝶《ちょう》は死人の|魂《たましい》なのよ。つかまえて、|怖《こわ》い思いさせちゃダメなの。安らかに天国へ|還《かえ》してあげないとね」 「そうなの……?」  智は、不安げな目をした。 「ボク、怖い思いさせた?」  |綺《き》|麗《れい》な|瞳《ひとみ》が、もう涙で|潤《うる》みはじめる。  サヤサヤと風が吹き、智の髪をかき乱す。  絹糸のような髪に|陽《ひ》が照りつけ、|丈《たけ》|高《たか》い草がザワザワと騒ぐ。  ふいに——。  十数匹の|紋白蝶《もんしろちょう》が現れ、智の周囲で舞いはじめた。 「ピヨちゃん……! ちょうちょ! 怒ってるの!? ねえ!」  涙をこらえ、ぐっと|唇《くちびる》を結んだ智。  その鼻のてっぺんに、一匹の蝶が舞いおりた。  ゆっくりと羽を上下させ、智に何か語りかけているようだ。  次々に、ほかの蝶たちも智の肩や頭に舞いおりてくる。  |慰《なぐさ》めるような|気《け》|配《はい》。 「怒ってないみたい、智ちゃん。|大丈夫《だいじょうぶ》よ」  緋奈子が、そっとささやく。  智は、ようやくホッとした。  瞳が明るくなる。  それを見てとったのか、紋白蝶がいっせいに飛びたった。  青空にむかって、高く高く舞いあがる。 「わあ……!」  智は、頭を思いっきりのけぞらせ、蝶の|行《ゆく》|方《え》を目で追いかけた。  満面の|笑《え》|顔《がお》。  紋白蝶の群れは、どこまでも高く舞いあがっていく。  やがて、一群れの白は、真夏の青空に溶けて見分けがつかなくなった。      *    *  秋の夜。  どこかで、|鈴《すず》|虫《むし》が鳴いていた。  古い屋敷の|日《に》|本《ほん》|間《ま》である。  部屋の中央に、|障子《しょうじ》が四枚、四角く立てかけてある。  智は、障子の作る|結《けっ》|界《かい》の中央にいた。  六歳か、そのくらいの頃だ。  白い着物を着て、|裸足《は だ し》で座っている。  |怯《おび》えた|瞳《ひとみ》だ。  智の両肩を、八歳くらいの少女がしっかり|抱《かか》えていた。  やはり白い着物に|素《す》|足《あし》。  長い|漆《しっ》|黒《こく》の髪。  緋奈子である。  白い障子に、無数の|鬼《おに》、|怨霊《おんりょう》、|魑魅魍魎《ちみもうりょう》の影が|映《うつ》る。  多くの|妖《よう》|怪《かい》・|異形《いぎょう》のものが列をなして|徘《はい》|徊《かい》する——|百鬼夜行《ひゃっきやこう》の夜だった。  智の|類稀《たぐいまれ》な|霊力《れいりょく》に|惹《ひ》きつけられて、百鬼夜行の|魔《ま》|物《もの》が|集《つど》っているのだ。 「ピヨちゃん……|怖《こわ》い……」 「|大丈夫《だいじょうぶ》。このなかには、あいつら、絶対に入ってこられないわ」  緋奈子は、智の両肩を抱く手に力をこめる。 〈|式《しき》|固《がた》め〉という一種の|呪《じゅ》|法《ほう》である。  霊力のある人間が、自分の身を|防《ぼう》|御《ぎょ》|壁《へき》代わりにして、魔のターゲットとなった者を守るのだ。  夜が明けるまで、抱きしめて守り続けることができれば、魔物は退散する。  だが、夜明け前に〈式固め〉が破れれば、術者は死ぬ。  スウーッ……と、真っ赤な火の玉が、日本間に飛びこんできた。  ——うぬう……|隙《すき》がないわ……。  ——結界を破れ。  |恨《うら》めしげな声。  火の玉が、障子の四方をぐるぐると飛びまわる。  ふいに、どこかで神経質な笑い声が爆発する。  智の全身が、ビクッと震える。 「怖い……! 苦しいよ……ピヨちゃん……胸が痛い……!」  地上をさまよう怨霊の苦痛が、智の胸にズキリと響く。  夜明けには、まだだいぶ時間がある。 「痛い……苦しいよう……お母さん、どこ……」 「大丈夫よ、智ちゃん。お母さんは、安全なところにいるわ。お母さんが戻ってくるまで、緋奈子が智ちゃんを守ってあげる。怖くないわ。大丈夫よ」  優しい声。 「祈ってあげて、智ちゃん。|怨霊《おんりょう》が解放されて、楽になるように」  智は、素直に目を閉じた。  胸に直接伝わってくる怨霊の苦痛。  |百鬼夜行《ひゃっきやこう》への恐怖。 (祈るなんて……できない) 「大丈夫、|怖《こわ》くないわ、智ちゃん」  口に出さなかった|想《おも》いを読みとったような緋奈子の声に|励《はげ》まされて、心を澄ます。  ——痛い、痛い、痛い。  ——苦しい、苦しい、苦しい……。  ——誰か光を……。  |切《せつ》ないまでの訴え。  怨霊どもの|頬《ほお》に、血の色の涙が|視《み》える。  |障子《しょうじ》のむこうの苦しげな息づかい。  智の意識が、ふっと透明になった。 (ああ、かわいそうに……)  思った瞬間、智の全身から青い光が輝きだした。  ——あああああーっ!  四枚の障子から、青い光がほとばしった。  智の放つ光が、障子を突きぬけたのだ。  |日《に》|本《ほん》|間《ま》が一瞬、真昼のように明るくなる。 「智ちゃん……すごい……」  驚いたような緋奈子の顔。  智は、|微《ほほ》|笑《え》んだ。 「もう……痛くないよ……」  青い|浄化《じょうか》の輝きは、しだいに強まる。  百鬼夜行の|気《け》|配《はい》が、遠くなった。  光のなかへ、すべてが溶けていく——。      *    *  光が降りそそいでいた。  どこかで、あぶら|蝉《ぜみ》が鳴いている。  |鷹《たか》|塔《とう》智は、|布《ふ》|団《とん》のなかで目を覚ました。 「ん……」  寝返りをうつと、古びた日本間が、目に飛びこんできた。  黒ずんだ木の|天井《てんじょう》、|漆《しっ》|喰《くい》塗りの白壁。  年代ものの|桐《きり》のタンスが、壁のほうにあった。 (ここは……?)  |襖《ふすま》が、軽い音をたてて開いた。  聞き慣れた足音。 「起きたか、智」  色黒で人のよさそうな少年が、木の|盆《ぼん》を持って入ってきた。  身長は、一八七センチ前後。  ミントグリーンのポロシャツに、ベージュの短パン姿。  |鳴海京介《なるみきょうすけ》。  鷹塔智の|相《あい》|棒《ぼう》で、高校の同級生だ。  |新宿区《しんじゅくく》|高《たか》|田《だの》|馬《ば》|場《ば》にある智のマンションの同居人でもある。  盆の上には、氷を盛った皿がある。 「京介……」 「氷持ってきてやったぞ。おまえ、朝イチは氷しか食えないだろ。その後は、熱いカフェ・オ・レ用意してやんねーと|機《き》|嫌《げん》わりいし。それにしても……信じらんねー。ここんち、冷蔵庫もねーんだぜ。俺、生まれて初めて、|氷《ひ》|室《むろ》なんてもん見ちまった」 「ひむろ……?」 「地下掘って、貯蔵室みたいなの作ってあんの。すっげえよなあ。夏なのに、超涼しいんでやんの」  京介は、どっかと智の|枕《まくら》もとに座りこむ。  見ているだけで、こちらが幸せになりそうな|笑《え》|顔《がお》。 (ああ、そうか……)  低血圧の智の意識が、ようやくはっきりしてくる。  智と京介は、昨日から、智の祖父母の家に来ていた。  |鎌倉由比ヶ浜《かまくらゆいがはま》の近くである。 「智……どうした」  京介が、ふいに心配そうな顔になって尋ねる。 「どうって……?」 「おまえ、泣いてるじゃないか。なんだよ、自分でわかんねーの?」  言われて初めて、智は、自分の|頬《ほお》が|濡《ぬ》れているのに気がついた。  ひどく悲しい夢をみていたような気がする。  開け放した窓から、夏の風が吹きこんでくる。  時間が早いせいか、風は涼しい。  智は、|浴衣《ゆ か た》のまま起きあがって、手の甲で涙を|拭《ぬぐ》う。  わけもなく、悲しい気持ちになった。 「京介……オレ……」  ぽろぽろと涙がこぼれはじめる。  思わぬことに、智はうろたえてしまった。 (え……? え……?) 「智、|大丈夫《だいじょうぶ》か」 「どうしよう……どうしよう……オレ、変だ。涙が止まらない……」 「なんだ。何があったんだ、智」  京介が、|盆《ぼん》を置いて、智の肩に手をのばす。 「京介……」  智は、口を押さえた。  |目《め》|茶《ちゃ》|苦《く》|茶《ちゃ》な気持ちだ。  どうしていいのかわからない。  心のなかで、|嵐《あらし》が吹き荒れている。 「夢をみたんだ……」  ようやく、思い出した。  子供のように泣きじゃくりながら、京介に訴える。 「それで悲しくなって……」 「夢? なんだよ、それは」 「わからない……わからないんだ、京介……。でも、子供の頃の夢だった……」 「子供の頃の夢……?」 「うん……」  たまらなくなった智は、京介の胸に顔を押しあてる。 「泣くなよ……バカ。たかが夢くらいで」  京介の声が笑いを含む。 「バカとはなんだよ、バカとは……! オレは本当に悲しくて泣いてるのに……!」  智は、|拳《こぶし》を固めて京介の胸をポカポカ|殴《なぐ》りつけた。  抗議のつもりなので、さほど力は入れていない。  京介は、思わず微笑した。 (こいつ……|可《か》|愛《わい》い……)  この同じ智が、日本でも|希《け》|有《う》の|霊力《れいりょく》を持っている術者などとは、信じられない。  鷹塔智は、千年に一人、現れるか現れないかの天才|陰陽師《おんみょうじ》なのだ。  選ばれし者。この国の光と救いを|象徴《しょうちょう》する少年。  白い救世主。  だが、今の智は、陰陽師としての|記《き》|憶《おく》の大半を失っている。  そのため、本来の能力の三分の一も出せないのだ。  力がなくなっている智は、異様に|可《か》|憐《れん》で、無性に周囲の|庇《ひ》|護《ご》|欲《よく》をかきたてる。  一種の自己防衛機能が、働いているらしい。  動物の子供が、目が大きくて、愛らしいのと同じ状態だ。  智の行動を|可《か》|愛《わい》いと思ってしまう鳴海京介は、異常なわけではない。 (か、可愛すぎる……)  智の体を抱きしめ、髪に顔を|埋《うず》める。  |日《ひ》|向《なた》の|匂《にお》いがした。  智の肩が、まだ|小《こ》|刻《きざ》みに震えている。 「どんな夢だったんだ、智」  そっと尋ねた。  智が、京介の腕のなかで身じろぎする。 「オレ、四つくらいで……古い|社《やしろ》で|蝶《ちょう》を追いかけてて……それから、場面が変わって、家のなかで|障子《しょうじ》を四枚立てて、|結《けっ》|界《かい》を作ってて……」 「蝶に障子かぁ……わけわかんねー」  京介は、くすんと笑いをもらす。 「それで泣くのか、おまえ。妙な|奴《やつ》だな」 「でも……」  智が、低い声で|呟《つぶや》く。  京介の言葉は耳に入っていないようだ。 「いつも緋奈子がオレのそばにいた……」  京介の肩が、緊張する。 「緋奈子が……?」  時田緋奈子。  |魔《ま》の|盟《めい》|主《しゅ》だ。  この国の|霊《れい》能力者を管理・教育する団体JOA(財団法人|日本神族学協会《ジャパン・オカルティック・アソシエーション》)の|陰《かげ》の支配者でもある。  智の|幼《おさな》なじみなのだが、現在は、敵にまわって、智の命を|狙《ねら》っている。  つい先日の|江《え》|ノ《の》|島《しま》での|退《たい》|魔《ま》の時も、智に|呪《じゅ》|殺《さつ》|者《しゃ》を送ってきたばかりだ。  そもそも、智の記憶を|封《ふう》じたのも、緋奈子の|仕《し》|業《わざ》だ。  しかし、そんなことをしておきながら、緋奈子は、二歳年下の智を愛しているのだ。  |前《ぜん》|世《せ》で智の母だったとも主張している。  そして、智も——。  |記《き》|憶《おく》を失うまでは、緋奈子のことを|想《おも》っていたという。 (まさか……智)  京介は、黒ずんだ|天井《てんじょう》を見あげた。  ジィジィジィ……と、|蝉《せみ》の声が|湧《わ》きあがる。  台所のほうから、|炊《た》きたてのご飯の|匂《にお》いが流れてきた。  何事もなければ、平和な朝のはずだった。  京介は、無意識のうちに、智を抱きしめる手に力をこめた。 「おまえ、まさか……智……」  智は、|濡《ぬ》れた|頬《ほお》を京介の腕に押しつける。 「京介……ごめん……オレ、変だ……」  京介は、心を落ち着けようと、智の髪に指を|滑《すべ》らす。  だが、疑いが胸に湧きおこってきて、止まらない。  智の涙に、どうしようもないほど心が騒ぐ。 (違うよな……そんなはず、ないよな……) 「あのさ、智、おまえ……まさか、そんなことねえと思うけどさ……」 「なぁに……京介?」 「まだ緋奈子のこと、好きか……?」 「まさか……いきなり何言うのさ、京介」  智は、顔をあげ、濡れた|瞳《ひとみ》のまま京介を見つめた。  |困《こん》|惑《わく》の表情だ。 「緋奈子は、オレを殺そうとしてるのに」 「じゃあ、なんで緋奈子の夢で泣くんだよ」 「そんなこと、オレに|訊《き》かれたってわかるわけ、ない……」  智は、|苛《いら》|立《だ》ったように、手の甲で涙を|拭《ぬぐ》った。  と、|廊《ろう》|下《か》を歩く重い足音がした。  智の祖父・鷹塔|虎《こ》|次《じ》|郎《ろう》に違いない。  ちょっと説明の行き違いがあって、京介は虎次郎の|心証《しんしょう》を悪くしている。  こんなところを見られたら、|面《めん》|倒《どう》なことになる。  二人は、|慌《あわ》てて離れた。  智は、ゆるんだ浴衣の|襟《えり》もとを、急いでかきあわせる。  |間《かん》|一《いっ》|髪《ぱつ》。|襖《ふすま》がガラリ……と開いた。  ぬっと顔を出したのを見ると、金茶色の髪の青年だ。  |紺《こん》と|紅《くれない》の|紅葉《も み じ》がらの|浴衣《ゆ か た》を、|粋《いき》に着こなしている。  茶色の|瞳《ひとみ》が、いたずらっぽくキラキラ輝いていた。  片手に、黒いダブルデッキのCDラジカセがある。 「マスターのお|祖父《じ い》ちゃんかと思った? はっずれー。ご飯だから、おいでって」 「|紅葉《も み じ》……まぎらわしい|真《ま》|似《ね》して」  智が、ノリの軽い|式《しき》|神《がみ》を|睨《にら》みつけた。 「怒らないでよう、マスター。愛してるよう」  紅葉は、うれしげに、智にまとわりつく。  |傍《はた》から見れば、高校生の美少年にちょっかいを出す|軟《なん》|派《ぱ》な大学生……といった感じだ。  智は、あきらめたような顔で、紅葉をじゃれさせていた。  紅葉は、智の四体の式神のうちの一体である。  戦闘用の式神だ。  おちゃらけているが、攻撃力は高い。  やる時はやる。  ほかの式神たちの名前は、それぞれ、|桜良《さ く ら》、|睡《すい》|蓮《れん》、|吹雪《ふ ぶ き》……という。  四体とも、|召喚《しょうかん》の|咒《じゅ》を録音した四枚のCDで呼びだすことができる。  今のところ、CDラジカセにセットされているのは、紅葉のディスクだ。  早朝のことなので、音はボリュームを絞って、小さくしてあるのだが。  紅葉は、|憮《ぶ》|然《ぜん》としている京介に、明るくVサインなどしてみせる。 「ねえねえ、京介の|旦《だん》|那《な》、この浴衣、似合う? マスターのお|祖母《ば あ》ちゃんが、おいらにって作ってくれたんだよ」  京介も、|昨夜《ゆ う べ》は、智の祖母が用意してくれた浴衣をパジャマ代わりにして眠った。  智の祖母・|夏《なつ》|子《こ》は、和裁が得意だという。 「紅葉だから紅葉がらかよ。……ちょっと安直すぎねーか」  京介は、|眉《まゆ》をよせた。 「ひょっとして、桜良は|桜《さくら》のがらで、睡蓮は|蓮《はす》のがらで、吹雪は雪の|結晶《けっしょう》のがら……とかゆーんじゃねえだろうな」 「よくわかったねえ、旦那。あったまいーい!」 「紅葉、おまえ、もしかして、俺のことコケにしてねーか?」 「やだよう、旦那っ。マスターの大事な旦那を、コケになんかするわけないじゃーん。ほらっ、おいらなんか、馬に|蹴《け》られて死んじゃうってば」 「いいかげんにしろよ、紅葉……! おまえって|奴《やつ》はぁ……昨日といい今日といい!」  熱くなった京介にむかって、紅葉は、ニヤリと笑いかけ、出ていこうとする。  ふと、|式《しき》|神《がみ》は足を止めた。  肩ごしに振り返って、智を見る。  紅葉は、別人のように優しい目をしていた。 「マスター、どうしたのさ。昨日の夜までは、あんなに幸せだったのに。夢みたくらいで、そんなに悲しくなるの? おかしいよ。京介の|旦《だん》|那《な》を好きだって気持ちは、一晩じゃ変わらないはずだよ。そんなに泣いちゃダメじゃない。式神には、マスターの気持ち、ダイレクトに伝わるんだからね。おいらまで|切《せつ》なくなっちゃうよ。元気だしなよ、ね」 「紅葉……」  智の|頬《ほお》が、カッと赤くなる。 「好きだなんて……そんなこと……」 「じゃあね、マスター。おいら、先に行ってるよ。なるべく早めにおいでよね。でないと、お|祖父《じ い》ちゃんの血圧あがるからねっ」  言いたいことを言った紅葉は、|踊《おど》るような足どりで立ち去っていった。 「智……」  京介は、そっと呼びかけた。  智の両肩に、手をのばした。|浴衣《ゆ か た》ごしに、肩の丸みをつかむ。  智は、ためらいがちに京介と視線をあわせた。  目が真っ赤だ。|頬《ほお》も赤い。 「目が|兎《うさぎ》になってる……智兎だ」  智は、|拗《す》ねたように|呟《つぶや》く。 「京介が悪いんだ」 「なんでだよ。俺は何もしてねーよ」 「京介の顔見たら、悲しくなった。だから、京介のせいだよ」 (|嘘《うそ》だろ……それは)  京介は、切なくなる。 (まだ、おまえ、緋奈子が好きなくせに……)  思った自分の思考に、また自己|嫌《けん》|悪《お》を感じる。  智が、目をゴシゴシこすって、小さく笑う。  |綺《き》|麗《れい》な|笑《え》|顔《がお》。 「京介……一緒だよ、ずっと」  甘い言葉。  京介の胸に身をよせ、少し上向いた。  無防備な|仕《し》|草《ぐさ》。  京介は、なんとなくドキリ……として、目をそむけた。  心臓の|鼓《こ》|動《どう》が速くなる。  それを|悟《さと》られまいと、乱暴に智を押しのけた。 「ほら、早くメシ食いにいけよ。おまえのお|祖母《ば あ》さんに言っといたからさ。氷とカフェ・オ・レ、用意してあるはずだ。俺は、そのへんのコンビニですますから」 「京介……?」  傷ついたような、小さな声。  京介は、サイフを握って|廊《ろう》|下《か》に出た。  数秒の沈黙があって、智がダダダダダッと横を走りぬけていった。  廊下の古い|床《ゆか》|板《いた》が、ギシギシ悲鳴をあげる。  泣いているような|浴衣《ゆ か た》の後ろ姿。  京介は、どうしていいのかわからずに、その場に立ち止まってしまった。 (だって……おまえ、まだ緋奈子のこと好きなんだろ……?)  京介は、ひんやりした木の壁に肩をもたせかけた。  そのまま、ズルズルと床に座りこみ、|膝《ひざ》を|抱《かか》えた。 「智……」  屋敷の裏手で、|蝉《せみ》|時雨《し ぐ れ》が|湧《わ》きあがる。  胸が痛くなるほど|切《せつ》なかった。     第一章 無限と永遠  |鎌《かま》|倉《くら》は、百二十年ぶりの|奇《き》|祭《さい》〈|闇《やみ》|送《おく》り〉を目前に控えていた。  |街《まち》のあちこちで、|神楽《か ぐ ら》や|太《たい》|鼓《こ》の音がする。  この街で〈闇送り〉が行われるのは、〈|汚《けが》れ|人《びと》〉が、鎌倉を|終焉《しゅうえん》の地に選んだためだ。 〈汚れ人〉というのは、大地の汚れ——闇を|我《わ》が身に引き受け、|浄化《じょうか》して歩く術者の呼び名である。  大地の闇を|呑《の》みこんだ術者は、一つの土地に長く滞在することができない。  長く滞在すれば、その土地を闇で|汚《お》|染《せん》してしまうことになる。  だから、〈汚れ人〉は、日本全国を放浪して歩く。  闇を体内に招く|呪《じゅ》|具《ぐ》〈|闇扇《やみおうぎ》〉を、|唯《ゆい》|一《いつ》の持ち物として。  長い年月をかけて、すべての土地をめぐり歩く。  そして、〈汚れ人〉が|老《お》いさらばえて、歩く力を失った時、後継者に〈闇扇〉を手渡すのだ。  |生涯《しょうがい》かけて体内にためこんだ|闇《やみ》を、最後の力で|浄化《じょうか》し、息をひきとる。  それが、〈闇送り〉の祭りである。 〈|汚《けが》れ|人《びと》〉の|鷹《たか》|塔《とう》|虎《こ》|次《じ》|郎《ろう》は、天才|陰陽師《おんみょうじ》・鷹塔|智《さとる》の父方の祖父だった。 〈闇送り〉の祭りが行われるあいだ、|鎌《かま》|倉《くら》は、日本じゅうでもっとも闇の濃い土地になる。  |魔《ま》が|集《つど》う三日間。  魔だけではない。  |怨霊《おんりょう》、|死霊《しりょう》どもが、日本全国から、この鎌倉に続々と集結していた。 〈汚れ人〉の闇の浄化に便乗して、自分も浄化されようとしているのだ。  さらに、海外からも——。  この珍しい|霊《れい》|的《てき》現象を見物しようと、|超心理学《ちょうしんりがく》の研究家や、霊能力者らがつめかけていた。  この三日間、鎌倉は、世界有数の|怪《かい》|奇《き》スポットと化す。  JOAは、この祭りに協賛し、霊的な警備を一手に引き受けていた。  鷹塔智は、肉親として、虎次郎に最後の別れをするため、鎌倉入りすることになった。  智の双子の姉・|冴《さ》|月《つき》は、|勘《かん》|当《どう》同然の状態で家を出て結婚しているため、〈闇送り〉にも姿を見せない。  実質的に、智がただ一人の|孫《まご》ということになる。  ところが、一つ問題があった。  |記《き》|憶《おく》|喪《そう》|失《しつ》の智は、祖父母の顔も覚えていない。  両親は、すでに|亡《な》くなっていた。  智にとっては、見知らぬ他人の家に行くような気分だった。  冷静な顔をしてみせても、内心、心細かったらしい。  言葉ではなく、思いっきり|寂《さび》しそうな背中で、|相《あい》|棒《ぼう》・|鳴海京介《なるみきょうすけ》の同行を求めた。  京介は、例によって、「オカルトは嫌い」と、ぶつぶつ言ったが、最後には折れた。 〈闇送り〉の準備で、家のなかはてんやわんやの大騒ぎだろう。  智は、気をきかせて、|式《しき》|神《がみ》の|紅葉《も み じ》を先行させ、伝言を送った。  ——お|祖父《じ い》さま、お|祖母《ば あ》さま、友達の鳴海京介も、一緒に連れていきます。頼りになる|奴《やつ》だし、料理|洗《せん》|濯《たく》ができるので、|邪《じゃ》|魔《ま》にはならないと思います。  智の伝言は、そんな感じだった。  ところが、|冗談《じょうだん》の好きな紅葉は、伝言を途中で|改《かい》|竄《ざん》した。  ——お祖父さま、お祖母さま、恋人の鳴海京介も一緒に行きます。オレたち、|同《どう》|棲《せい》しています。せめて、一度だけでも会って、二人の仲を許してください。  改竄どころか、|完《かん》|璧《ぺき》な創作だった。  あきらかに、人選ミス。  紅葉は、四体の|式《しき》|神《がみ》のうちで、いちばん性格が軽くて、ノリがいい。  こうなることは、予想しておくべきだった。  智も、祖父との対面を前にして、かなり動転していたらしい。  |由《ゆ》|比《い》|ヶ《が》|浜《はま》駅で電車を降りて、緑に囲まれた屋敷の門をくぐったとたん——。 「かああああぁーっ!」  大声とともに、京介は、|竹刀《し な い》でぶん|殴《なぐ》られた。  バシィッ!  バシバシバシッ! 「いてぇっ! 何すんだっ、この|野《や》|郎《ろう》っ!」  京介は、とっさに、腕をあげて頭をかばう。 「京介っ!」 「帰れ、帰れぇっ! 貴様のような男に、|我《わ》が|家《や》の|敷《しき》|居《い》は、一歩たりともまたがせんっ!」  竹刀を握って、|仁《に》|王《おう》|立《だ》ちになったのを見れば、|小《こ》|柄《がら》な老人だ。  |墨《すみ》|色《いろ》の|作《さ》|務《む》|衣《え》、|素《す》|足《あし》に|下《げ》|駄《た》|履《ば》き。  左目に黒い|眼《がん》|帯《たい》をしている。  右の肩に、カラスがのっていた。  老人が竹刀を振っても、羽でバランスをとって、うまくつかまっている。 (な……なんだ……この|怪《あや》しいじーさんは……)  京介は、思わず腰が引けてしまう。  老人は、肩を|怒《いか》らせて、京介を|睨《にら》みつけている。 「鳴海京介といったな。貴様、大事な|孫《まご》をたぶらかすとは、許さんっ! この|汚《けが》らわしい|男色家《だんしょくか》めが! 智は、鷹塔の家を継ぐ大事な体じゃっ! さあさあさあ! とっとと出ていけっ! まだ|殴《なぐ》られたらんのかあっ!?」  これが——京介と、智の祖父・鷹塔虎次郎との出会いだった。  智は、京介の隣で|茫《ぼう》|然《ぜん》としている。 「…………」  |老《お》いさらばえて、歩けないはずの老人が、ピンピンしているのにも驚いたが、いきなりのこの応対にも|度《ど》|胆《ぎも》をぬかれたようだ。 「なんで……どうして……京介がこんな目に……?」  その|謎《なぞ》が|解《と》けるには、紅葉の自白を待たなければならなかったのだが。  夕方。  京介は、不幸な気分を|噛《か》みしめていた。  智の祖母・|夏《なつ》|子《こ》が出てきて、虎次郎にとりなしてくれたため、家には入れた。  だが、一人で、屋敷の離れの汚い|六畳間《ろくじょうま》に案内されたきりだ。  お茶の一杯も出てくるわけではない。  部屋の|隅《すみ》には、|畳《たた》んだ|布《ふ》|団《とん》と|浴衣《ゆ か た》がポツンと置いてある。  |網《あみ》|戸《ど》も壊れていて、|蚊《か》が入りこんでくる。  裸電球を|眺《なが》めていると、無性に|情《なさ》けない気分になった。 (何やってんだ……俺……)  智は、|茶《ちゃ》の|間《ま》に連れていかれて、|豪《ごう》|華《か》な夕食をご|馳《ち》|走《そう》になっていた。  京介は、招かれていない。  智は、京介と一緒に食べる……と主張したのだが、通らなかったのだ。 「なにぃっ!? あの男にメシだとぉ? あんな男に食わせるメシはないっ! ナツ、ほうっておけ! さあ、智、腹いっぱい食え! 男は、|丈夫《じょうぶ》でなければならん。早く気立てのいい嫁をもらって、子供をボロボロ作って、わしを安心させてくれ!」  楽しそうな虎次郎の笑い声が、開いた窓から聞こえてくる。 (あんの……クソ|爺《じじ》ぃ……)  |空《す》きっ|腹《ぱら》を|抱《かか》えて、|畳《たたみ》に|転《ころ》がっている。  虎次郎が監視しているのか、智は一度も顔を見せなかった。  深夜——。  悲しい気分の京介が、布団を敷いて、うとうとしていると、戸を|叩《たた》く音がした。 「誰だよ……」  京介は、|浴衣《ゆ か た》姿で、上半身を起こして尋ねる。  寝入りばなを起こされたので、|不《ふ》|機《き》|嫌《げん》になっている。 「京介、オレだよ。やっとぬけてきたんだ」  智だった。  室内に|滑《すべ》りこんできたのを見ると、魚の|模《も》|様《よう》の浴衣姿だ。  すまなさそうな顔をしている。  智は、竹皮の包みと、コンビニの袋を差しだす。  竹皮には、しっとりした|海苔《の り》のおにぎりが、六つ包まれていた。 「はい、京介、おにぎり。お|祖母《ば あ》さまが作ってくれたんだ」  コンビニの袋のなかには、よく冷えたウーロン茶の|缶《かん》が二つ。  京介のために、わざわざ外出して、買ってきたものらしい。 「サンキュー」  しばらくは、会話もそっちのけで、おにぎりと格闘する。  空腹に、塩味のおにぎりは、死ぬほどうまかった。  智は、京介の食事風景を、幸せそうに|眺《なが》めている。 「おいしい、京介?」 「ん……最高!」 「よかった……」  |微《ほほ》|笑《え》む智は、ほんのりと|石《せっ》|鹸《けん》の|匂《にお》いをさせている。 「おい……おまえ、一人で|風《ふ》|呂《ろ》入ってきたの?」  京介は、ご飯のついた指をなめなめ、横目で智を|睨《にら》む。 「うん。|檜《ひのき》のお風呂だったよ」 「ずっりぃーっ! 俺が、こんなところで|蚊《か》に食われてんのに! おまえは、いい気分で風呂あがりかよぉ!」  智は、目を伏せた。  |申《もう》し|訳《わけ》なさそうな表情。  いきなり、智は正座した。京介の前に両手をつく。 「ごめん……今日はホントに。オレ、こんなつもりじゃなかったから」 「あ……」  正面きって謝られると思わなかった京介は、少し困ってしまう。 「やめろよ……な。やめろってば。手をあげてくれよ、智。頼む。あ……ははは、ははは。今の|冗談《じょうだん》。冗談だからな。気にすんなよ」  智は、不安げな|瞳《ひとみ》を京介にむけた。 「怒ってない……?」 「んー……ぜんぜんっ!」 「ホントに?」 「あーあ、ホントだとも」  京介は、智の手をあげさせる。 「いちいち謝るんじゃねーよ。おまえのせいじゃないんだから」 「ごめん。オレ、いつも京介に|迷《めい》|惑《わく》かけてる……」  京介は、思わず微笑した。  この同じ智が、意地を張って、周囲の手を|拒《きょ》|絶《ぜつ》し続けていたのだ。  わずか二か月前のことだ。  智は、変わった。  感情表現が|下手《へ た》なのは相変わらずだ。  だが、京介に対しては、信頼しきったように心を預けてくる。 「何……笑ってるのさ……京介」  智が、|拗《す》ねたような目で|睨《にら》む。 「いいじゃないか。もっと迷惑かけろよ。俺は、智に迷惑かけてほしいんだよ。友達だろ」 「……お|人《ひと》|好《よ》し」 「智だからさ、いいよ」 「ホントに、京介?」 「ああ……」  智は、京介の背後にまわった。|畳《たたみ》に足を投げ出して座る。  京介の背中に、背中をもたせかける。 「京介」  コツン……と頭をぶつけてきた。  甘えるような|仕《し》|草《ぐさ》。  ほのかな|石《せっ》|鹸《けん》の|匂《にお》い。  触れあった背中が、なんだか気持ちいい。  安心する。  二人は、しばらく黙りこんでいた。 「なあ……智のじーさん、本当に死んじまうのか」 「うん……そう言ってた」 「あんなに元気で、|可《か》|愛《わい》げねーのになあ」  京介は、ため息をついた。 「信じられねーよな」 「元気そうに見えるだけだって、お|祖母《ば あ》さまが教えてくれた。もう血まで|闇《やみ》を吸って黒いんだ……。どんな医者にも、お|祖父《じ い》さまを助けること、できないんだって……」 「そうか……。ところで、〈|汚《けが》れ|人《びと》〉の後継者選び、すんでるのか」 (|孫《まご》の智が選ばれるってことは……まさか、ないよな……?)  打ち消そうとしても消えない不安が、京介のなかにある。  智が、〈汚れ人〉の後継者とやらになれば、虎次郎のたどった運命は、やがては智のものとなる。  闇を体内に|抱《かか》えこんで、|老《お》いさらばえるまで、国じゅうを果てしなく放浪して。  エゴだとわかってはいても、京介は、願わずにはいられない。 (智が選ばれませんように……)  誰かが、闇を|浄化《じょうか》しなければならないのだとしても。  みなの幸せのために、誰かが、やらなければならない仕事だとしても。  智以外の誰かが、その|重《おも》|荷《に》をしょえばいい。 (智は……もう充分、重い荷物をしょってるんです……神様。  どうか、智にだけは、〈|闇扇《やみおうぎ》〉を握らせないで。  こんなのは俺のエゴだけれど……認めてほしい。  神様……お願いです……)  智は、京介の願いには、気づかないようだ。  気づけば、この|凜《りん》とした少年は、京介を|軽《けい》|蔑《べつ》するだろうか。  この世から、すべての悲しみと、痛みを消し去りたいと願っている、清い|霊《れい》|気《き》をまとう、この天才|陰陽師《おんみょうじ》は。 「わからない。お祖父さまも、お祖母さまも、大事な話は避けてるみたいで……元気で楽しそうなだけ……つらいよ」  智は、ため息のような声で|呟《つぶや》く。  京介は、なんとなく|粛然《しゅくぜん》としてしまう。 「人の生死だけは、どうにもならねーもんな。いくら陰陽師でも」 「もう……やめよう、その話。オレ、|嫌《いや》だよ」  智の声が、|切《せつ》なげに震える。 「嫌だ……京介」 「ごめん……悪かった、智」  京介は、思いっきり後悔した。 (やば……)  死だとか、|寿命《じゅみょう》だとかいう話は、二人のあいだでは禁句だった。  京介自身が、このままでは、あと数か月の命、と宣告されているからだ。  京介が、|降《ごう》|魔《ま》の|利《り》|剣《けん》・|天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》を使ったせいである。  天之尾羽張は、イザナギの|剣《つるぎ》。  つまり、神の剣だった。  人間が使いこなせる剣ではない。  無理に使い続ければ、一日で|他人《ひ と》の一年が過ぎていくようになる。  急激な老化と、|衰弱《すいじゃく》。  そして、死。  京介は、智を守るために、すでに限度を|超《こ》えて四回、天之尾羽張を使っていた。  まだ、今のところ、目に見える変化は現れていない。  だが、智は|怯《おび》え続けていた。  京介を失う予感に。  京介は、まだ半分くらい|嘘《うそ》のような気がしている。 (どこも痛くねーし、一日で一年たった気もしねーしさ……) 「ごめん。ごめんな、智」 「……もう、いい」  智は、|拗《す》ねた目つきで京介を|睨《にら》む。  シベリアンハスキーのような|怖《こわ》い目だ。  だが、京介はぜんぜん怖くない。 (智……|可《か》|愛《わい》い)  智は、ゴソゴソと動いて、京介の腕のなかに陣取った。  京介の胸に背中をもたせかける。  お気に入りの位置だ。 「暑くない、智?」 「うるさい」 「せっかく|風《ふ》|呂《ろ》入ったのに、また汗かくぜ。……おまえ、そんなに俺が好き?」 「バカ。何言ってんのさ。大っ嫌いだよ……京介なんか」  智が、うっとうしそうに|呟《つぶや》く。  そんなひどい言葉を聞いても、京介の心は揺れたりしない。  智の「嫌い」は、「好き」だから。 (もっと言って、智……もっと、たくさん) 「どのくらい嫌い? 言ってみて、智。俺のどこが、どのくらい」  ギュッと智の体に両腕をまわした。  智の声が聞きたかった。 「京介なんか大っ嫌いだ! 嫌いだって言ってるでしょ!」  智は、顔をそむける。  薄く|陽《ひ》に焼けた首筋。  |完《かん》|璧《ぺき》な|顎《あご》の線。  京介は、思わず|見《み》|惚《ほ》れてしまう。 「京介なんか……嫌いだ」 「うん。それはもう聞いた。……でも、どこが嫌い?」  グッと全身で押す。  智は、|畳《たたみ》にひっくりかえった。 「わ……っ!」  |凜《りん》とした美少年も、こうなっては形なしだ。  智が起きあがろうとするところを、胸に京介が|膝《ひざ》をのせて押さえつける。 「重い!」 「どこが嫌い? 言ってみて」 「ぜんぶ」  智は、ピンクの|舌《した》を出してみせる。  京介の反応を無視して、また顔をそむけた。 (智、|可《か》|愛《わい》い……) 「しつこいよ。放して、京介……暑苦しい」  意地っ張りな言葉。  それでも、智は、ためらいがちに顔をあげた。  京介を見つめる。  言葉よりよほど|雄《ゆう》|弁《べん》な|瞳《ひとみ》。 「大嫌いだ……京介なんか……嫌いだ」 「俺も……智、大嫌い……の反対の反対の反対」  智は、一瞬、照れたように目を伏せる。  京介は、微笑した。 「放してなんかやらない」  体をずらして、胸と胸をあわせる。  智の心臓の|鼓《こ》|動《どう》が伝わってきた。 「京介……」  どこか不安げな智の瞳。 「おまえを離さない」  京介は、|一《いち》|途《ず》に宣言する。  |畳《たたみ》に押さえつけられたまま、智の指が、京介の指を握りしめた。  そっと。  |万《ばん》|感《かん》の|想《おも》いを伝えるように。 (智……おまえ……) 「離さないで……ずっと」  智が、ささやく。  思わぬことにゆるんだ京介の手の下から、智の腕がぬけだす。  片手で、京介の頭を抱きよせる。 「京介……」 「|誓《ちか》うよ……智」  どちらからともなく、目を閉じた。  |唇《くちびる》が重なった。  触れあっていると、時間が止まる。  無限と永遠を手に入れたような|錯《さっ》|覚《かく》を起こす。  海のほうで、花火の音。  |闇《やみ》のなかで草を揺らす風。  ずいぶん遠くまで来た。  遠くまで来てしまった。  こうなるために、十七年間生きてきたような気がする。  そして、智は、京介の隣で眠りについた。  京介は、明け方近くまで、智の寝顔を見つめていた。  満ちたりた寝顔。  京介は、自分もたぶん、智と同じような表情をしているのだと思った。  すべての夢を手に入れたような——。 (忘れない……智……)  少しずつ東の空が、青みがかっていく。  そうして、それが、二人の一つの頂点だったのだ。      *    * 「七月二十三日、|鶴岡八幡宮《つるがおかはちまんぐう》に|落《らく》|雷《らい》。死者四名。二十六日未明、|鎌《かま》|倉《くら》|宮《ぐう》の|伽《が》|藍《らん》|崩《ほう》|壊《かい》。二十七日、|極《ごく》|楽《らく》|寺《じ》|山《さん》|門《もん》が落雷で|炎上《えんじょう》。二十七日、鎌倉|霊《れい》|園《えん》の地盤|陥《かん》|没《ぼつ》。二十九日、|逗《ず》|子《し》方面への|材《ざい》|木《もく》|座《ざ》トンネル崩壊……」  よく響く男の声が、被害状況を読みあげていく。  |鎌《かま》|倉《くら》市内のホテルのスイートルーム。  夏の真昼だった。  |蝉《せみ》|時雨《し ぐ れ》が、聞こえた。 「祭りは、今夜から始まる前夜祭を含めて三日三晩続く。そのあいだ、鎌倉の|地《ち》|霊《れい》|気《き》がこの|闇《やみ》に耐えられると思うか、ピヨ子」  |美《び》|貌《ぼう》の|心霊治療師《サイキック・ヒーラー》は、コピーの|束《たば》をテーブルに放り出した。  薄茶の長い髪、銀ブチ|眼《め》|鏡《がね》のむこうの|謎《なぞ》めいた|瞳《ひとみ》。  相変わらず、白衣を着ている。  アーサー・セオドア・レイヴン。  日本名、|時《とき》|田《た》|忠《ただ》|弘《ひろ》。  日米のハーフで、JOA所属の霊能力者の一人だ。  窓の外を|眺《なが》めていた少女が、|従兄《い と こ》の声に振り返った。  時田|緋《ひ》|奈《な》|子《こ》。  能面のような顔、情念のこもった|漆《しっ》|黒《こく》の髪。  口もとに|三《み》|日《か》|月《づき》|形《がた》の笑いを|貼《は》りつかせている。  白い綿のブラウスと、タータンチェックのフレアースカート姿だ。  この国の|霊《れい》能力者たちを管理・教育するJOA(財団法人|日本神族学協会《ジャパン・オカルティック・アソシエーション》)の|陰《かげ》の支配者。  そして、|魔《ま》の|盟《めい》|主《しゅ》である。 「鷹塔虎次郎が……祭りの主役の〈|汚《けが》れ|人《びと》〉がいるかぎり、|闇《やみ》の暴走はありえないわ。最後の瞬間まで、虎次郎は、この|鎌《かま》|倉《くら》に集まった闇を|制《せい》|御《ぎょ》し、|浄化《じょうか》し続けるはず」 「虎次郎が闇を制御しているにしては、お|粗《そ》|末《まつ》じゃないかね、ピヨ子。この|惨《さん》|憺《たん》たる状況は」  |心霊治療師《サイキック・ヒーラー》は、コピーの|束《たば》を指先でトントンと|叩《たた》いてみせた。 「まるで、誰かが、わざと鎌倉の大地に眠る霊を、叩き起こそうとしているみたいだな。なにしろ、鎌倉一帯は古戦場だからな。叩けば、いくらでも霊が出てくる。聞いたぞ。|昨夜《ゆ う べ》、|由《ゆ》|比《い》|ヶ《が》|浜《はま》|沖《おき》に、|平《へい》|家《け》の船団が現れたそうじゃないか。|二《に》|階《かい》|堂《どう》のほうでは、|新《にっ》|田《た》軍の|骸《がい》|骨《こつ》|武《む》|者《しゃ》が、|血刀《ちがたな》を振りまわしていたとか。いくら虎次郎でも、これだけの|怨霊《おんりょう》を相手にするのは、|厳《きび》しいところだ」  緋奈子は、|妖《よう》|艶《えん》に微笑してみせた。 「あら、たっちゃん、イベントは大きなほうが|面《おも》|白《しろ》いものよ」 「おまえが、この機会に各国の霊能力者を集めて、鎌倉サミットなどと言い出すから、JOAの関係者はここ一か月、徹夜続きだ。これ以上、仕事を増やすなよ」 「みんな、〈闇送り〉見物に、日本に来てるんでしょ。だったら、ちょうどいいじゃない。同じ日程でサミット開いても、来てくれるわよ」 「そういうことをやって喜ぶ、ミーハーなタイプではないと思ったがな」  心霊治療師は、すうっと目を細めた。  |端《たん》|正《せい》な顔が、|真《ま》|面《じ》|目《め》になる。 「……緋奈子、おまえ、いったい何を|企《たく》らんでる?」 「祭りの|犠牲《いけにえ》は、多いほうがいいと思ったのよ。母なる大地を、異国人の血で汚すの」  緋奈子は、クスクス笑う。|邪《じゃ》|悪《あく》な|笑《え》|顔《がお》。 「まさか……緋奈子」  時田忠弘の表情が、わずかに変わった。 「おまえか……平家の船団も新田軍の|亡《ぼう》|霊《れい》も?」 「そう。緋奈子よ」  魔の盟主は、まっすぐ、時田のハシバミ色の|瞳《ひとみ》を見つめかえす。 「鎌倉は、魔の|都《みやこ》となるの」 「ほう……東京は、あきらめたのか」 「あきらめてないわ。この国で、一度でも都になった土地は、互いに|共振《きょうしん》しているの。鎌倉を支配すれば、東京が落ちるのは時間の問題よ。今日の夕方までには、鎌倉周辺の鉄道と道路は、すべて|封《ふう》|鎖《さ》される。|霊《れい》|的《てき》|結《けっ》|界《かい》も完成するわ。人間も霊も、|鎌《かま》|倉《くら》に入ることはできても、出ることはできなくなる。知ってた、たっちゃん? 死にかけた〈|汚《けが》れ|人《びと》〉が|闇《やみ》を|浄化《じょうか》する前に、心臓をくりぬけば、高濃度の大地の闇が手に入るのよ。すごい力だわ。……首都圏をまるごと|魔《ま》|界《かい》にできるくらいのね」  緋奈子は、うっとりと|呟《つぶや》く。 「虎次郎お|爺《じい》ちゃんの心臓、|綺《き》|麗《れい》でしょうね。真っ暗な闇がつまってるわ。黒い宝石みたいよ、きっと。緋奈子、お金も宝石もいらないから、〈汚れ人〉の心臓が欲しいわ」 「待て、緋奈子。海外の関係者を敵にまわす気か?」  招待客のなかには、時田忠弘の母方の——レイヴン家の霊能力者もいる。 「緋奈子は、あんな連中、ぜんぜん|怖《こわ》くないのよ。しょせん、ケチな魔術師だの、オカルトおたくじゃない。まさか、たっちゃん、アメリカの|親《しん》|戚《せき》に未練があるわけじゃないでしょ」  魔の|盟《めい》|主《しゅ》は、優しいとさえいえる表情で、年上の|従兄《い と こ》を見つめた。 「さあ、もうすぐ祭りが始まるわ。たっちゃんも、最後に鎌倉の|街《まち》を見物してらっしゃい。〈闇送り〉が終わる頃、この街は、もうなくなっているから」  時田は、身震いした。  緋奈子は、どんどん狂っていく。  どこで、心の歯車が壊れたのだろう。  中学一年の時、緋奈子は、違う世界に踏みこんでしまったのだ。  九州の、時田一門が管理する|社《やしろ》で、|邪《じゃ》|神《しん》・|火《ほ》|之《の》|迦《か》|具《ぐ》|土《つち》に|憑依《ひょうい》された時から——。  |心霊治療師《サイキック・ヒーラー》は、緋奈子に背をむけた。 「わたしはこの国が嫌いだ。滅びればいいと思っているよ……鎌倉も東京も」 (智以外は、みな……)  ——〈|倭《やまと》は 国のまほろば たたなずく |青《あお》|垣《がき》 |山《やま》|隠《ごも》れる 倭し|美《うるわ》し〉……こんな気持ちは、あなたにはわからないだろうね、セオドア。この国を守りたいという|想《おも》いは。  遠い日の、智の言葉を思い出す。まだ、|記《き》|憶《おく》を失っていなかった頃の智だ。 (わたしには、わからない……智。誰もかも、どうしてこの国にこだわるのだろう……)  二つの祖国を持つ時田忠弘には、理解できなかった。  二つの国のどちらにも、真に属することのできない心霊治療師には。      *    *  鎌倉|二《に》|階《かい》|堂《どう》。  その一角の屋敷だった。 「|左《さ》|門《もん》、先ほど、中東のブローカーから連絡があった」  低い、押し殺した声。 「〈|汚《けが》れ|人《びと》〉の心臓に、六千億の値をつけてきよった」  声の|主《ぬし》は、|痩《や》せた老人だ。  |炯《けい》|々《けい》たる目の光、|革《かわ》のような|肌《はだ》、少し曲がったような|唇《くちびる》。  ただ座っているだけなのに、異様な存在感があった。  老人の前には、三メートルほど離れて、若い男が正座している。  左門と呼ばれたのは、この男である。  |精《せい》|悍《かん》な|風《ふう》|貌《ぼう》だ。  どこか、|強烈《きょうれつ》に|牡《おす》を意識させる。  人生の|裏《うら》|街《かい》|道《どう》を歩く者特有の、危険な|臭《にお》いをさせていた。  肩幅が広く、胸が厚い。  |派《は》|手《で》な|縞《しま》がらのスーツ、レイバンのサングラス、腕にチラリと見えるローレックスの腕時計。  一見して、|堅《かた》|気《ぎ》の者ではないと知れる。  左門|道《みち》|明《あき》。  組関係の|退《たい》|魔《ま》・|呪《じゅ》|殺《さつ》を専門とする|呪《じゅ》|禁《ごん》|師《じ》だ。  切ったはったの|極道稼業《ごくどうかぎょう》である。人に|恨《うら》まれることも多い。  超常現象など、|日常茶飯事《にちじょうさはんじ》である。  気のきいた組なら、JOA所属の|霊《れい》|的《てき》ボディガードを|雇《やと》っているご時世だ。  左門のように、呪殺もこなす極道専門の術者は、|重宝《ちょうほう》がられていた。  老人は、|黒《くろ》|部《べ》|銀《ぎん》|次《じ》。  |鎌《かま》|倉《くら》東部一帯をシマとする、|山《やま》|田《だ》組系暴力団黒部組の組長である。 「六千億……ですか」 「悪い話ではなかろう」  組長は、左門の表情の変化を楽しむように|呟《つぶや》く。 「そういうわけでな、その仕事、引き受けた」 「しかし、オヤジ……!〈汚れ人〉には、JOAの特殊|警《けい》|護《ご》部隊がついています。|孫《まご》の天才|陰陽師《おんみょうじ》・鷹塔智も屋敷に入ったはず……」  左門は、老人の|無《む》|茶《ちゃ》な行動に、やんわりと異を|唱《とな》える。 「おそらく、鷹塔智が〈汚れ人〉の後継者になるはずです。今回の〈|闇《やみ》|送《おく》り〉は、JOAの|威《い》|信《しん》をかけた一大イベントです。このまま、大地の闇が|浄化《じょうか》される夜を、静かに楽しまれたほうが、平和でよろしいかと存じますが」 「男・黒部、|一《いっ》|世《せ》|一《いち》|代《だい》の大仕事なのだ、左門。おまえの力が、ぜひとも必要だ」 「しかし……オヤジ……」 「おまえの有能さは、高く評価しているぞ。うまくやりとげてくれるな」 「お言葉はうれしいのですが……しかし……」  ゆらり……と老人が立ちあがる。  微妙に空気が動いた。 「わしの決定が不服か、左門」  絶対的な声。  左門は、反射的に|青畳《あおだたみ》に両手をついた。  |恭《うやうや》しく答える。 「そのようなことは決して……」 「ない、な」 「は……」  この世界では、白いものも組長が黒と言ったら、それは黒なのだ。  反抗することなど許されない。 「む……ならば、〈|汚《けが》れ|人《びと》〉の|孫《まご》……鷹塔智を連れてこい」  黒部は、満足げに命令する。 「鷹塔智を……? いかがなさいます?」  左門は、少し顔をあげて尋ねる。  老人の楽しげな様子に、|一《いち》|抹《まつ》の不安を感じた。 「時間|稼《かせ》ぎだ。ぐずぐずしているあいだに、虎次郎が|闇《やみ》を|浄化《じょうか》し、孫が〈汚れ人〉を|継承《けいしょう》してしまったら、虎次郎の心臓は価値がなくなる。だから、後継者候補はつかまえて、どこぞに閉じこめておけ」 「相手は、超一流の|陰陽師《おんみょうじ》です。|誘《ゆう》|拐《かい》するのは難しいと思いますが」 「わしがやれと言っているのだ」 「…………」 「急げ、左門。鷹塔智の情報は、JOAから入手してある」 「は……かしこまりました」  左門は、観念した。 (仕方ねえな……これも、オヤジの意思だ)  それでも、退出する前に、ひとこと言わずにはいられなかった。 「オヤジ、昔は、どんな暴君でも、自分の領地に入った〈汚れ人〉は、大事にしたものですよ。足もとの大地を浄化して、闇を運び去ってくれる貴重な術者ですからね。金のためになら、〈汚れ人〉の心臓も売る……。|嫌《いや》な時代ですね……」  黒部は、左門の言葉を|一笑《いっしょう》にふした。 「大地を浄化する術者は、〈汚れ人〉だけとは限るまい。いくらでも、代用品はある。心配するな」  左門は、無言で頭を下げた。 (オヤジは……変わってしまった)  数か月前まで、黒部は、もっと人間味のある老人だった。  |横着《おうちゃく》で、|狡《ずる》くて、敵には|容《よう》|赦《しゃ》なくて。  そのくせ、道に捨てられた子犬や|子《こ》|猫《ねこ》は、必ず拾ってきてしまうのだ。  左門は、そういう老人のしたたかさと、優しさが好きだった。  組長が組長なら、組員も組員だった。  組長の拾ってきた犬猫のもらい手を、熱心に探したりする。 「本当にオヤジはしょーがねえよな」などと、ぼやきながらも。  |不《ふ》|思《し》|議《ぎ》な|和《なご》やかさのある場所だった。  もともと、左門は流れ者だ。  二十一歳の時だった。  四国のほうで、問題を起こして追われ、関東に逃げてきた。  行くあてなどなかった。  それが、|怪《け》|我《が》をして、動けなくなったところを、黒部に拾われた。  冬の|鎌《かま》|倉《くら》の海で。  ——いい目をしているな。おまえは、強くなる。……わしと一緒に来るか?  あれから、ずるずると八年も、黒部組に居着いてしまった。  今では、客分ながら、黒部のよき相談役となっている。  黒部銀次という男に、それだけの魅力があったからだ。  数か月前までは。 (どうしたんだ……オヤジ)  変わってしまった黒部が、不安だった。  金の|亡《もう》|者《じゃ》のようになってしまった黒部は、見るに忍びなかった。  それでも、見捨てることなどできなかった。  左門は、黒部銀次を|敬《けい》|愛《あい》していた。とうに失った父の代わりのように。  左門は、深いため息をついた。 (〈|汚《けが》れ|人《びと》〉の心臓を手に入れる……か)  |面《めん》|倒《どう》な仕事だ、と思った。  はっきりいって、気がすすまない。 「あ、アニキだぁ! アニキー!」  |廊《ろう》|下《か》を曲がったとたん——。  |能《のう》|天《てん》|気《き》な声が聞こえてきた。  左門は、一瞬、軽い|目《め》|眩《まい》を覚えた。 (こいつ……まだいたのか) 「アニキぃ、オヤジとの話、終わりましたかぁ?」  |華《きゃ》|奢《しゃ》な美少年が、子犬のように駆けよってくる。  手に、何かを持って、ぶんぶん振りまわしている。  そばに来たところを見ると、身長は、左門の胸くらいまでしかない。 「俺、ずっと待ってたんですよう、アニキぃ」 「ヤス……」  左門は、視線があうように、心もち腰を|屈《かが》めながら、どうしようかと思う。  目の前の少年は、|派《は》|手《で》なアロハシャツと、白い|麻《あさ》のパンツ姿。  細い首には、ぶっとい金のネックレスが揺れている。  左手の小指には、ごつい金の指輪。  服装は、いかにも|極《ごく》|道《どう》|者《もの》という感じだ。  しかし、身長が低いうえに、顔が女顔なので、まるで似合わない。  |栗《くり》|色《いろ》の髪はサラサラで、大きな|瞳《ひとみ》は、いつも|潤《うる》んでいるように見える。  |睫《まつ》|毛《げ》も長くて、くるっと自然にカールしている。  名を|柴《しば》|田《た》|靖《やす》|夫《お》という。  ジャニーズ系アイドルとしてデビューしたら、さぞかし人気が出るだろう。  この美少年が、男らしさに|憧《あこが》れて、極道の世界に入ってきて一年数か月。  まだ、正式な組員にもなっていない。  どういうわけか、左門を気に入って、子犬のようにつきまとっている。  |口《くち》|癖《ぐせ》は、「アニキみたいな男になりたいなあ[#「」はハートマーク Unicode="#2661"]」である。  やたらアニキ呼ばわりされて、左門も困っているのだが。 「アニキの好きな『コアラのマーチ』、買っときました。はいっ」  靖夫は、ニコニコ笑いながら、お|菓《か》|子《し》の箱を頭の上に差しあげる。  そうしないと、長身の左門には届かないと思っているようだ。  左門の|困《こん》|惑《わく》に気づいた様子はない。 「アニキ、ヤクザのくせに、『コアラのマーチ』好きなんですよねー。|可《か》|愛《わい》いなあ」  うれしそうに、じゃれついてくる。  悪気がないだけに、よけい困ってしまう。 「やめろ、ヤス。いちいち『コアラのマーチ』と|連《れん》|呼《こ》するんじゃねえ! みっともねえだろうが!」  左門は、思わず声を荒らげる。  困った|挙《あ》げ|句《く》の行動なので、本気で怒っているわけではない。  だが、靖夫はシュンとなって、長い|睫《まつ》|毛《げ》を伏せてしまった。 「ごめんなさい、みっちゃんのアニキぃ」 「みっちゃんだとぉ!?」  左門のこめかみが、ピクッとなった。 (よ、よくもその呼び名を……)  左門の名前は、|道《みち》|明《あき》という。  子供の頃は、よく「みっちゃん、みちみちウ×コたれて……」とはやしたてられたものだ。  だが、この業界に入ってから、面とむかってこう呼ばれたことはない。  さすがに、ムッときた。 「ナメとんのか、こらぁ、ヤス!」  腰をのばして|怒《ど》|鳴《な》ると、声は、|小《こ》|柄《がら》な靖夫の頭上を通りぬけてしまう。  仕方なく、左門はまた|前《まえ》|屈《かが》みになった。|我《われ》ながら|情《なさ》けない姿だ。 「ごめんなさい、ごめんなさいっ、みっちゃんのアニキ!」  靖夫は、自分で言ってから、「あ、まずい」と、口を押さえた。 「この|野《や》|郎《ろう》、いい|根性《こんじょう》だな。こっち来い」  左門は、|逞《たくま》しい腕を靖夫にのばした。  片手で握りつぶせそうな首根っこをつかまえて、ズルズル引きよせる。  一発、頭を|殴《なぐ》りつけた。  ゴツン……と|鈍《にぶ》い音がした。  靖夫の|瞳《ひとみ》が、うるうると|潤《うる》みはじめる。 「アニキぃ……アニキは、俺が嫌いなの? 俺が、いつまでもガキみたいだから?」 「なっ……何を言い出すんだ、おまえは!」  近くのダークスーツの若い連中が、わくわくと耳をそばだてている。  |好《こう》|奇《き》|心《しん》|旺《おう》|盛《せい》な|奴《やつ》らだ。  左門は、少し|焦《あせ》った。 (これは……やばい)  組に身をよせてから、八年。  行きずりの女との|情事《じょうじ》はあっても、特定の愛人はいない。  女に|拘《こう》|束《そく》されるのが|嫌《いや》だというのが、理由なのだが。  あらぬ|噂《うわさ》を流されるのも|不《ふ》|愉《ゆ》|快《かい》だ。  左門は、心を|鬼《おに》にして、左手で靖夫を張り飛ばした。  バシッ……! (す、すまん……ヤス……) 「いいかげんにしろ! つまんねえこと言ってねえで、|仕事《シ ノ ギ》だ、仕事ぃ!」 「や……っ……アニキ……痛い……!」  靖夫は、思わず片手で|頬《ほお》を押さえる。  |切《せつ》なげな目で左門を見あげた。  もっとも、本人には、どんな目つきかなんてわからないのだろう。  左門は、|可《か》|憐《れん》な美少年をいたぶっているような気分になる。 (なんで……こんな|奴《やつ》が|極《ごく》|道《どう》なんかめざすんだ……)  世の中の|不条理《ふじょうり》を|噛《か》みしめる。 「もう言わねーな、ヤス」 「ごめんなさい、ごめんなさいっ……俺、バカだから……!」  靖夫は、長い|睫《まつ》|毛《げ》を震わせる。  異様に可憐な姿。 「…………」  左門は、とても困ってしまった。  ここで泣かれでもしたら、それこそ|醜聞《しゅうぶん》だ。  若い連中が、口を押さえて笑いを殺している。 「車を出せ、ヤス。……そんな顔してねーで、早くしろぉ!」  どうしようもないので、もう一発|殴《なぐ》りつけ、足早に|玄《げん》|関《かん》にむかう。  後ろから、やっぱり子犬のように靖夫がついてきた。 (あーあ……)  左門道明、二十九歳は、思わず心のなかで|嘆《たん》|息《そく》してしまった。  玄関から出ると、快晴の空が広がっている。  夏の一日が、また始まろうとしていた。     第二章 |剣《つるぎ》の|神《しん》|霊《れい》  |円《えん》|覚《かく》|寺《じ》。  |鎌《かま》|倉《くら》五山の第二位で、|夏《なつ》|目《め》|漱《そう》|石《せき》の『門』にも登場する|古《こ》|刹《さつ》である。  |JR《ジェイアール》北鎌倉駅を降りるとすぐ、|杉《すぎ》|木《こ》|立《だち》に囲まれた総門がある。  降るような|蝉《せみ》|時雨《し ぐ れ》。  ムッとするような青草の|匂《にお》い。  近代的な|街《まち》|並《な》みのなかにある鎌倉駅と違って、ここは、いかにも古都の|風《ふ》|情《ぜい》を|漂《ただよ》わせている。 「さて」  若い女のハスキーヴォイス。  円覚寺の|方丈《ほうじょう》の裏庭である。  |智《さとる》は、髪の長い美女と|対《たい》|峙《じ》していた。  |派《は》|手《で》なアニマルプリントのスーツと、八センチはあるピンヒール。  細い手首に、重たげな金のバングル。  左手にだけ、黒い|革《かわ》の手袋をしているのが、妙に人目を|惹《ひ》いた。  |百《もも》|瀬《せ》|麗《れい》|子《こ》。  今年|二十歳《は た ち》になる|凄《すご》|腕《うで》の|犬《いぬ》|神《がみ》|使《つか》いである。  元JOA所属で、智の同僚だった女性だ。  智がJOAを脱会するのと一緒に、麗子もJOAを離れ、フリーとなった。  今では、智と|京介《きょうすけ》の|後《こう》|見《けん》|人《にん》を自称している。 「ここに呼び出したわけはわかってる、智? 京介君のことで、大事な話があるのよ」  麗子は、腕を組んで、じっと智を見つめた。  智は、白いコットンシャツと、ホワイトジーンズ。  京介の名前に、微妙に|瞳《ひとみ》の色が変わる。 「京介……?」  それでも、智の声は落ち着いていた。 「|天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》のことですか?」 「察しがいいわね。助かるわ。|降《ごう》|魔《ま》の|利《り》|剣《けん》……天之尾羽張を京介君に持たせておくと危険だって……知ってた?」 「ええ。|寿命《じゅみょう》が縮むそうですね。イザナギの|剣《つるぎ》、神の剣である天之尾羽張を人間が使うのは、そもそも無理。|過《か》|負《ふ》|荷《か》がかかって、一日に、普通の人間の一年分の生命力を|消耗《しょうもう》するとか。このままでは、京介は急激に老化し、|衰弱《すいじゃく》して、最後は死ぬでしょう。京介の|寿命《じゅみょう》は、おそらく、もってあと数か月です」 (智……)  麗子は、少し驚いて、目の前の少年を見つめた。  落ち着きすぎている。 (動揺してない……どうして……?)  智は、静かな|瞳《ひとみ》で、ゆったりと裏庭を見渡した。  |方丈《ほうじょう》の四方は、高い|石《いし》|塀《べい》で囲まれていた。  塀にそって、百体の小さな石仏が並んでいた。すべて|菩《ぼ》|薩《さつ》|像《ぞう》である。  先人の祈りのこもった場所。  救済への激しい|希求《ききゅう》が、百体の菩薩像に|凝縮《ぎょうしゅく》されている。  方丈の裏庭の一部は、石庭になっている。  石庭を囲むようにして、|楓《かえで》や|松《まつ》が植えられていた。  庭の一角に、小さな池がある。  池には、色とりどりの|鯉《こい》が泳いでいた。  木々の緑を|映《うつ》す|水《みな》|面《も》。  |密《ひそ》やかな場所だった。  こんなことを話すために来るのではなく、もっと幸せな気分の時に訪れたい場所だ。  たとえば、京介と二人きりで。 「でも、どうやら、オレの知らないことがまだあるようですね、麗子さん?」  智は、ほのかに微笑を浮かべて、|犬《いぬ》|神《がみ》|使《つか》いを見つめかえした。  実際の年齢より大人びた表情。  京介といる時には、絶対に見せない、|陰陽師《おんみょうじ》としての顔だ。  |蝉《せみ》|時雨《し ぐ れ》が、途切れることなく続いている。  麗子は、|気《け》|圧《お》されて目を伏せた。 「京介君に関しては、いい知らせと、悪い知らせと、二つあるのよ。たぶん、いいほうから聞きたいでしょ」 「お願いします」 「京介君の|寿命《じゅみょう》は、縮まないわ。老化も起こらない。これが、いいほうの知らせよ」  麗子の言葉に、智は|鷹《おう》|揚《よう》にうなずいてみせる。  智がもっと驚くと思っていた麗子は、あてがはずれた。 (どうしたの……智?) 「でも、それは、京介君が、普通の人間じゃないからなの」  智は、無言だった。  身振りで、その先を|促《うなが》す。  |冷《れい》|徹《てつ》な|眼《まな》|差《ざ》し。  まるで、何もかも知りつくし、|覚《かく》|悟《ご》を決めたような|瞳《ひとみ》だ。 (智……本当にいいの……?)  麗子は、智の様子を気づかいながら、言葉を探した。  京介は、もともと|退《たい》|魔《ま》の専門家ではない。  智や麗子と出会うまでは、普通の高校生だった。  あれは、今年の六月だった。  |梅雨《つ ゆ》入り前の頃。  智は、|新宿区《しんじゅくく》|高《たか》|田《だの》|馬《ば》|場《ば》の路上で、京介と出会った。  その直後、智は、極度の|霊力《れいりょく》の|消耗《しょうもう》から、|記《き》|憶《おく》を失ってしまった。  |面《めん》|倒《どう》|見《み》のよい京介は、意識を失い、倒れた智を助け、自分のアパートに連れて帰った。  だが、次から次へと事件が起こる。  智を|狙《ねら》った|呪《じゅ》|火《か》で、京介のアパートが焼け——。  ある事故によって、|封《ふう》|印《いん》されていたはずの|桜《さくら》の|怨霊《おんりょう》が解放された。  智は、苦労して|桜《さくら》の|怨霊《おんりょう》を|浄化《じょうか》し、天に|還《かえ》した。  だが、数日とたたぬうちに、新たな事件が起こった。  智と京介の通う|諏訪東《すわひがし》高校の同級生・|牧《まき》|村《むら》|冴《さえ》|子《こ》が、|行《ゆく》|方《え》|不《ふ》|明《めい》となった。  牧村冴子は、|誘《ゆう》|拐《かい》されたのだ。  |魔《ま》の|盟《めい》|主《しゅ》・|時《とき》|田《た》|緋《ひ》|奈《な》|子《こ》に。  京介は、|記《き》|憶《おく》を失った智をほうっておけなかった。  智と|麗《れい》|子《こ》と彼の三人で、緋奈子に立ちむかった。  その戦いの極限状態のなかで、京介と智は、互いに深く結びついた。  強い信頼関係が生まれたのだ。  だが、結局、緋奈子はまんまと逃げおおせた。  牧村冴子を|無《む》|惨《ざん》に殺して——。  そして、京介の手のなかには、|天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》が残された。  魔を|斬《き》る|剣《つるぎ》が。  普段は、十五センチほどの金属片である。  特になんの|変《へん》|哲《てつ》もない棒のようなものだ。  しかし、京介が手にして念じると、一メートルほどの純白の光の|刃《やいば》となって|顕《けん》|現《げん》するのだ。  なぜ、京介に天之尾羽張が使えるのか、それはわからなかった。  だが、京介は、何もわからないまま、それでも智と一緒に戦う道を選んだ。  |降《ごう》|魔《ま》の|利《り》|剣《けん》で、智を守り続けると|誓《ちか》った。  京介は、焼けたアパートを引き払って、智のマンションに移り住んだ。  そして、二人は、一緒に暮らしはじめたのだ。  出会いから、一か月後。  夏休みに入った智と京介は、|湘南《しょうなん》|江《え》ノ|島《しま》にやってきた。  |退《たい》|魔《ま》の依頼を受けたためである。  江ノ島の|洞《どう》|窟《くつ》で、観光客や|浮《ふ》|浪《ろう》|者《しゃ》が影を斬られる事件が相次いだ。  影を斬られた人間は、数日で死んでしまう。  また、江ノ島近海には、ヨットやクルーザーを沈める|妖《よう》|怪《かい》が出現していた。  智と京介は、この二つの事件の解決を依頼されたのである。  依頼主は、地元代議士・|愛《あい》|川《かわ》|美《み》|佐《さ》|子《こ》。  直接、智たちに連絡をとってきたのは、秘書の|宮沢遼司《みやざわりょうじ》という男だった。  智と京介は、江ノ島に近い宮沢邸に宿を定めた。  二人はその時、宮沢秘書の息子・|勝《かつ》|利《とし》と出会った。  宮沢勝利は、JOA所属の|呪《じゅ》|殺《さつ》|者《しゃ》だった。  智と京介は、最初は、勝利に反発した。  だが、共通の敵との戦いを通して、勝利のまっすぐな性格を知り、認識を改めていった。  勝利は、頼りになる少年だった。  いろいろなことを知っていた。  勝利は、京介が|天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》を使うのを見て、忠告した。  これ以上、天之尾羽張を使い続けるな。  |寿命《じゅみょう》が縮むのだと。  京介が、安全に天之尾羽張を使えるのは、あと二回。  それを|超《こ》えれば、京介の体に影響が出はじめる。  急激な老化が始まる。  |衝撃《しょうげき》を受ける智と京介。  だが、敵は|容《よう》|赦《しゃ》なく襲ってくる。  |江《え》ノ|島《しま》の影|斬《き》り事件と、|妖《よう》|怪《かい》の出没の裏には、一人の呪殺者がいた。  |赤《あか》|沼《ぬま》|英《えい》|司《じ》。  四年ほど前まで、JOA|霊力《れいりょく》開発研修センターで、智と一緒に研修を受けていた少年。  智のかつての友人であった。  赤沼は、|魔《ま》の|盟《めい》|主《しゅ》・緋奈子に|命《めい》じられて、智を殺しにやってきたのだ。  台風の夕方。  赤沼が、妖怪〈いくぢ〉とともに、攻撃をしかけてきた。  京介は、天之尾羽張を赤沼にむけた。  智を守るために。  が、赤沼は、やすやすと智をさらい、江ノ島に連れていった。  江ノ島は、橋が分断され、孤立していた。  |嵐《あらし》のなかを、江ノ島へクルーザーを飛ばす京介と勝利。  そして——。  江ノ島での戦い。  京介は、最後のチャンスに|懸《か》けて、天之尾羽張を|顕《けん》|現《げん》させた。  智のためなら死ねる、と。  智もまた、京介の最大の危機に、能力を全開する。  呪殺者・赤沼英司は、智たちの必死の攻撃の前に、敗れ去った。  あれから——。  智も京介も、天之尾羽張の話題は避けている。  互いが、互いを気づかって、|努《つと》めて明るく振るまっていた。 「悪いほうの知らせは、京介|君《くん》が、|天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》の|剣《つるぎ》の|神《しん》|霊《れい》の|化《け》|身《しん》だってことなの」 「天之尾羽張の剣の神霊の化身……」 「そう。京介君の外見も|霊《れい》|気《き》も、普通の人間のものと区別がつかないわ。つまり、剣の神霊が、なんらかの手段で人間の肉体を持ってから、数代以上は、|転《てん》|生《せい》をくりかえしているということになる」 「それで、|麗《れい》|子《こ》さん。京介が、天之尾羽張の神霊の化身だとしたら、何がどう危険なんです? |寿命《じゅみょう》が縮まないのだとしたら」  智は、|素《そ》っ|気《け》なく尋ねる。 「このまま、天之尾羽張を使い続ければ、京介君は|妖獣《ようじゅう》になるわ」 「京介が妖獣に……?」 「京介君の|魂《たましい》は、天之尾羽張の剣の神霊そのもの。ところが、|砕《くだ》けた天之尾羽張の|刀《とう》|身《しん》は、剣の神霊を取り戻して、もとの姿に戻りたがっているのよ。京介君の魂と肉体は、徐々に引き|裂《さ》かれはじめる。魂を天之尾羽張に奪われる時間が長くなる。そして、京介君の肉体が変化しはじめる。魂を失った者は、人間じゃいられなくなるから。……妖獣への変化は、ゆっくりと始まるはずよ。最初は、|記《き》|憶《おく》が欠落する。記憶のないあいだ、京介君は妖獣として|街《まち》をさまよい、人を殺して歩くのよ。理性も何もかもなくして」 「それで、天之尾羽張の刀身は? 京介の魂を吸いこんで、どうなるんです」  あくまで、冷静な智の声。  麗子は、目を伏せた。 (どうして……そんなに落ち着いていられるの? 京介君は、あなたの大事な人じゃないの? 智……?) 「天之尾羽張は、金属の剣として実体化するはずだわ。史上最強の|降《ごう》|魔《ま》の|利《り》|剣《けん》として。もちろん、|邪《じゃ》|神《しん》・|火《ほ》|之《の》|迦《か》|具《ぐ》|土《つち》を|斬《き》り殺すことさえできる。……あなたが、そこまで計算して、京介君を仲間に引きこんだとは思わないけれど……。とにかく、今の段階で、京介君が天之尾羽張を絶対に|触《さわ》らなければ、妖獣への変化は起こらないわ。ただし、あと一度でも触ったら終わり。京介君を人間の姿にとどめておく方法は、今のところ不明だから。なにしろ、JOA図書館の|文《ぶん》|献《けん》をあたったんだけど、こういう例ってなくてね」 「なるほど」  智は、聞こえるか聞こえないかの声で、|呟《つぶや》いた。  微妙な感情が、美しい|瞳《ひとみ》のなかに|閃《ひらめ》く。 「ありがとう、麗子さん。忙しい時に時間をとらせてしまって、悪かったですね。……祖父の|警《けい》|護《ご》に戻っていただけますか」  麗子は、JOAから依頼されて、智の祖父・|鷹《たか》|塔《とう》|虎《こ》|次《じ》|郎《ろう》の警護にあたっている。 〈|汚《けが》れ|人《びと》〉の心臓を|狙《ねら》ってくる術者を|警《けい》|戒《かい》しての|措《そ》|置《ち》だ。 「そう……じゃ、先に帰らせてもらうわ。……でも、智、約束して。絶対に|無《む》|茶《ちゃ》はしないこと。京介君がこういう状態なんだから、|自重《じちょう》してちょうだい。あたしも、京介君を救う方法は、引き続き探してみるわ」  |麗《れい》|子《こ》は、少しためらってから、つけ加えた。 「京介君と会ってからの智、いい顔になったわ。よく笑うようになったし、|雰《ふん》|囲《い》|気《き》やわらかくなった。だから、なんとかしてあげたいのよね。このまま、終わらせたくないな……。できるかぎりの協力をするわ。だから、|独《ひと》りぼっちだなんて思わないでね」  |記《き》|憶《おく》|喪《そう》|失《しつ》の|陰陽師《おんみょうじ》は、すでに、麗子に背をむけている。  すべてを|拒《きょ》|絶《ぜつ》するような空気。  白いコットンシャツの背に、|陽《ひ》が|眩《まぶ》しく|射《さ》していた。 「智……」  麗子は、一歩前に出た。  その|刹《せつ》|那《な》、麗子の視界が変わった。 「え……?」  一面の赤。  異様な|鎌《かま》|倉《くら》の|街《まち》が、|視《み》えた。  |廃《はい》|墟《きょ》と化した|市《し》|街《がい》|地《ち》。  薄明るい空に、|紅《ぐ》|蓮《れん》の|炎《ほのお》が吹きあがっている。  |雷《らい》|鳴《めい》と|火柱《ひばしら》。  無数の|怨霊《おんりょう》が宙を飛びまわり、倒れて死んでいる人々が視える。  恐怖と絶望。  |地《じ》|獄《ごく》|絵《え》のような光景だった。  足もとの地面が、|粉《こな》|々《ごな》になって|砕《くだ》けていくような感覚。 「|嫌《いや》あああああああーっ!」  麗子は、思わず悲鳴をあげた。  そして、鎌倉の街に、押しよせてくる|大《おお》|津《つ》|波《なみ》。  |死霊《しりょう》たちが、赤い|平《へい》|家《け》の旗を立て、海上から、鎌倉の|崩《ほう》|壊《かい》を|眺《なが》めている。  一瞬の|幻《げん》|覚《かく》は、消えた。  麗子のなかに、すさまじいパニック状態を残して。  麗子は、激しく脈打つ胸を、ぐっと押さえた。  本当に、胸が痛い。 (智の心……智の心だわ……これ……)  麗子は、両腕で自分の体を抱きしめた。  全身に|脂汗《あぶらあせ》をかいて、ガクガクと震えているのに、ようやく気づく。  麗子は、無意識のうちに、智の心をのぞき見たのだ。  京介の危険を知らされ、激しく動揺している智の心を。 (なんて……|霊《れい》|気《き》……)  胸が苦しいのも、視界が変わったのも、智の霊気の影響だ。  智は、周囲のあらゆるものに影響をおよぼす。  地霊気が、乱れはじめる。  ピ……シッ……!  |嫌《いや》な音がして、智の足もとの地面に、細く浅い|亀《き》|裂《れつ》が走った。  ピシピシピシッ……!  |蜘《く》|蛛《も》の|巣《す》状の亀裂が、広がっていく。  智は、その中心に立ちつくしていた。  麗子は、智に背をむけ、よろめく足で歩きだした。  |慰《なぐさ》めなければと思いながら、こんな智のそばにい続けることに耐えられなかった。  ガクガクする足で、|北《きた》|鎌《かま》|倉《くら》駅の駐車場へむかう。  見あげた空は、真夏の青。 (どうしよう……|大丈夫《だいじょうぶ》かしら……智)  麗子は、愛車のドアに手をかけたまま、|円《えん》|覚《かく》|寺《じ》の空を振り返った。  智の霊気を閉めだせない。  そのまま、麗子は、ズルズルとうずくまってしまった。  麗子が去った後。  智は、池の|畔《ほとり》に歩みよった。 (どうして……こんなことに……京介……)  智の肩が、ビクンと震える。  張りつめた全身の力が、ぬける。  智は、ガクン……とその場に|膝《ひざ》をついた。 「|妖獣《ようじゅう》……」  智の|脳《のう》|裏《り》に、京介の|笑《え》|顔《がお》が浮かんだ。  心に焼きついた顔だ。  色黒で、|瞳《ひとみ》が光の加減で、|綺《き》|麗《れい》な|褐色《かっしょく》に|透《す》けて見える——。  見る者が幸せになるような微笑。 (失いたくない——!)  ゆっくりと|唇《くちびる》を手で押さえた。  こみあげてくる熱いものを、必死に|呑《の》みくだす。 「京介……なんで……!」  初めて、かすかなすすり泣きが、|陰陽師《おんみょうじ》の|唇《くちびる》からもれた。      *    *  |方丈《ほうじょう》の|石《いし》|塀《べい》の外側では——。  |栗《くり》|色《いろ》の髪の美少年が、不安そうな顔で、|精《せい》|悍《かん》な男を見あげていた。 「アニキぃ、|大丈夫《だいじょうぶ》ですかぁ? 車|酔《よ》いですかぁ?」 「…………」  |左《さ》|門《もん》は、無言で首を横に振った。  サングラスに隠れて、|瞳《ひとみ》の表情はわからない。  だが、|頬《ほお》の色が真っ青だ。  鷹塔智の|行《ゆく》|方《え》を追って、|円《えん》|覚《かく》|寺《じ》までやってきた。  あわよくば、人目のないところで気絶させ、|黒《くろ》|部《べ》組の事務所に運びこもうと思っていた。  だが、塀のこちら側で立ち聞きするうちに、智の|霊《れい》|気《き》の|余《よ》|波《は》を受けた。  心臓は破裂しそうだし、視界は半分くらいふさがっている。 (こんな……地霊気んなかで……なんて霊力出しやがるんだ……!)  思わず毒づいた時、左門の背後で、|邪《じゃ》|悪《あく》な|気《け》|配《はい》が動いた。  目に|視《み》えない地霊気の|闇《やみ》が、ぐぐっと濃くなった。  智の霊気に|触発《しょくはつ》されたらしい。 「なにぃ……!?」 (このうえ|怨霊《おんりょう》か……!?)  反射的に、左門は、|縞《しま》がらのスーツの|懐《ふところ》から|呪《じゅ》|符《ふ》を取り出した。  だが、頭がグラグラして、戦いに集中できない。  ゴゴゴゴゴゴゴゴーッ!  |轟《ごう》|音《おん》とともに、大地が激しく揺れた。 「地震……!? やだっ! アニキ、俺、地震嫌いっ!」  |靖《やす》|夫《お》が、頭を|抱《かか》えて地面にしゃがみこむ。 「ちぃ……! ヤス、地震くらいでビビってんじゃねえ!」  |叱《しっ》|咤《た》しながら、周囲を見まわす。 (あ……え? これは……)  左門の心臓が、ドクンと|跳《は》ねた。 「|黄泉津比良坂《よもつひらざか》……!? |冥《めい》|府《ふ》の門が開いた……!」  |参《さん》|道《どう》に、幅二メートルほどの|亀《き》|裂《れつ》ができていた。  その亀裂のなかから、ぞろぞろと|化《ば》け|物《もの》どもが、|這《は》い出してくる。  |牛《ご》|頭《ず》|鬼《き》、|馬《め》|頭《ず》|鬼《き》、|人《じん》|面《めん》|馬《ば》、|鬼《おに》|火《び》、|九尾《きゅうび》の|狐《きつね》……。  土くれを|掻《か》き分けて、さらに出てくる。  |蛇《じゃ》|神《しん》、|土《つち》|蜘《ぐ》|蛛《も》、巨大な|髑《どく》|髏《ろ》、血まみれの|鎧武者《よろいむしゃ》、三つ目の|猫《ねこ》……。  あっという|間《ま》に、参道は、化け物どもでいっぱいになった。  靖夫が、異様な|気《け》|配《はい》に気づいて、顔をあげた。 「…………!」  声にならない悲鳴。 「ヤス、俺の後ろに隠れろ!」  左門は、|舎《しゃ》|弟《てい》を背中でかばって、身構えた。  大きく息を吸いこんだ。  |逞《たくま》しい胸が、呼吸につれて、上下する。 「|東方千陀羅道《とうほうせんだらどう》 南方千陀羅道 西方千陀羅道 北方千陀羅道 中央千陀羅道!」  化け物どもにむかって、|呪《じゅ》|符《ふ》を投げた。  呪符は、|赤紫《あかむらさき》の光を放って、流星のように宙を流れる。  ——くっくっくっくっくっ。  笑い声がしたかと思うと、呪符は、すべて|弾《はじ》き飛ばされた。  バチバチバチバチッ!  空中で、青い火花が散る。  左門の投げた呪符は、|黒《こく》|煙《えん》をあげて、焼け|崩《くず》れた。  ——|生《なま》|意《い》|気《き》だよ、人間のくせに。  ——血祭りにあげちゃえ。  |陰《いん》|惨《さん》な笑い声が、|湧《わ》きあがる。  巨大な髑髏が、|不《ぶ》|気《き》|味《み》に白い歯をカタカタいわせた。  左門は、大きな両手で|印《いん》を結んだ。 「オン・カカカ・ビサンマェイ・ソワカ!」  ——|無《む》|駄《だ》、無駄、無駄ぁ!  |嘲笑《ちょうしょう》と一緒に、ボッ……と左門たちの足もとから、火が燃えあがった。 「うわああああーっ!」 「アニキぃーっ!」  たちまち、|紅《ぐ》|蓮《れん》の|炎《ほのお》は、左門と靖夫を包みこむ。  |刹《せつ》|那《な》。 「|鎮《しず》まりたまえ、|諸《もろ》|々《もろ》の荒ぶる|御《おん》|神《かみ》、大地の|御《み》|子《こ》、死せる|同胞《はらから》よ」  静かな声が、その場の狂乱を吹き払った。  |紅《ぐ》|蓮《れん》の|炎《ほのお》が、一瞬のうちに消滅する。  本物の火ではなく、|幻《まぼろし》だったようだ。  声の|主《ぬし》は、|石《いし》|塀《べい》の上に立っている。  白いコットンシャツとホワイトジーンズ。  智だ。  |化《ば》け|物《もの》どもを見おろす|瞳《ひとみ》には、|哀《あわ》れみとも|嘆《なげ》きともつかない光がある。  ひどく大人びた高貴な表情。  智は、両手で|印《いん》を結んだ。 「オン・アボキャ・ベイロシャノウ・マカボダラ・マニハンドマ・ジンバラ……!」  流れるような|光明真言《こうみょうしんごん》。  |浄化《じょうか》の青い光が、|陰陽師《おんみょうじ》の全身から輝きだす。  その光を浴びたとたん、化け物どもの様子が、変わった。  とろんとした目で、うずくまり、動かなくなる。  |陶《とう》|然《ぜん》とした姿。さっきまでの|邪《じゃ》|悪《あく》な様子は、もうない。  ——あったかいね。  ——いい心持ちだね。人間の……|風《ふ》|呂《ろ》っていうの……あれに似てるね。  うれしげなささやきが風に溶け、化け物どもは姿を消した。 「アニキ……天使ですよ……あれ」  靖夫が、|茫《ぼう》|然《ぜん》としたまま、石塀の上の智を見つめて、|呟《つぶや》く。 「バカ。天使なわきゃねーだろ」 「だってだって……羽が見えますぅ」  左門は、靖夫の指差すあたりに、目を|凝《こ》らした。何も見えない。 「|錯《さっ》|覚《かく》だろうが。|極《ごく》|道《どう》がメルヘンすんな」 「だって、すごく|綺《き》|麗《れい》ですよぉ」 「バカ……何言ってんだ、ヤス。……おまえだって綺麗だ」  言ってしまってから、左門は思わず、サングラスの下で|頬《ほお》を赤らめる。 (お、俺は、何を口走ってるんだ……!)  幸い、よそに気をとられていた靖夫の耳には、今のセリフは入らなかったようだ。 「あ……あぶないっ! 落ちるっ!」  靖夫が、叫ぶ。  石塀の上で、智がよろめいた。浄化の光が消えていく。 「どうした……!?」  左門は、とっさに|石《いし》|塀《べい》の下に走りよった。  |逞《たくま》しい両手を広げて、智の体を抱きとめる。 「|大丈夫《だいじょうぶ》か、鷹塔!?」 「う……」  かすかなうめき声。  |参《さん》|道《どう》の地割れは、|跡《あと》|形《かた》もない。 「なんだったんですかぁ、アニキぃ、今の……?」 「|黄泉津比良坂《よもつひらざか》が……|冥《めい》|府《ふ》の門が開いたんだ。|鎌《かま》|倉《くら》の|地《ち》|霊《れい》|気《き》が、|闇《やみ》の重みに耐えられなくなったんだろう」  左門は、手早く智を|介《かい》|抱《ほう》しながら、靖夫に答えた。 「ん……う……っ……」  智が、目を開いた。  |不《ふ》|思《し》|議《ぎ》そうに、左門の|精《せい》|悍《かん》な顔を見あげる。 「大丈夫か、鷹塔。……おかげで俺とヤスは助かった。礼を言わせてもらう」  左門は、|丁《てい》|寧《ねい》に智を地面に降ろして、軽く頭を下げる。  が、智の反応がない。 「……鷹塔?」 「京介ぇ……京介がいないよう……」  妙に子供っぽい|口調《くちょう》で、智が|呟《つぶや》く。  極端な|霊力《れいりょく》の|消耗《しょうもう》で、一時的に幼児のようになっている。  |記《き》|憶《おく》を|封《ふう》|印《いん》されて、力の効率が悪くなっているせいだ。  だが、それを知る者は、京介と|麗《れい》|子《こ》だけ。  事情のわからない左門は、不安になってしまった。 (打ちどころでも悪かったのか……?) 「アニキ……どうしましょぉ?」 「|手《て》|間《ま》がはぶけたじゃねえか。このまま、オヤジのところへ連れていく」  靖夫は、また泣きだしそうな目で左門を|睨《にら》んだ。 「アニキ……俺、やですよぉ。だいいち、オヤジのやってることは正しーんですかぁ? 智さんのお|祖父《じ い》さんの心臓を、金のために売り飛ばそうっていうんですよ。恥ずかしいと思わないんですか? 智さんは、俺とアニキを助けてくれたんですよぉ」 「む……」  ズバリと言われて、左門は返答に|窮《きゅう》した。  組長のためとはいえ、よくないことをしている、という自覚はある。 「助けてもらって、|恩《おん》を|仇《あだ》で返すのって……俺、頭わりいからよくわかんないけど……|任侠《にんきょう》の道と違うんじゃないかなぁって、思うんですけどー」 「ヤス……おまえ……」 (バカだ、バカだと思ってたが……意外とまっとうなこと言うじゃねえか)  左門は、急に自分が恥ずかしくなった。  靖夫の純真な|瞳《ひとみ》に、|己《おのれ》の生きざまを問いつめられているような気がする。 (ヤス……おまえみてえな心の|綺《き》|麗《れい》な|奴《やつ》が、なんで|極《ごく》|道《どう》なんかめざすんだよ……。神様に|叱《しか》られちまわ……)  左門は、手の甲でくいと鼻の頭をこする。 「|任侠《にんきょう》の道かよ……」 「アニキは怒るかもしんないんだけど……俺、今のオヤジって、映画だったら、|健《けん》さまに退治されちゃう悪役みたいで、かっこ悪いと思うんだ。どうせなら、健さまの味方して戦うほうが男らしいし、任侠の美学があると思うんだなあ」  靖夫は、星が十個くらいつまっていそうなキラキラの目で、主張する。  なんとなく風向きが違ってきた。 (おいおいおい……ヤス?)  左門は、悪い予感を感じた。  恐る恐る尋ねてみる。 「……ヤス、おまえ、その健さまってのは……ひょっとして」 「え? そりゃ、もちろん|高《たか》|倉《くら》健さまのことです。決まってるじゃないですかぁー」  キャハッと、靖夫は照れ笑いする。 「…………」  左門の肩がガックリとおちた。 (バカだ、バカだと思ってたが、やっぱりバカだぜ……ヤスよぉ)  つい、うかうかと感動させられてしまったぶんだけ、自分が|情《なさ》けなくなる。 「だから、俺たちも、智さん助けてあげましょーよぉ、アニキぃ」 「……勝手にしろ」  左門は、プイと靖夫に背をむけた。  先に立って、ずんずん歩きだした。  |不《ふ》|機《き》|嫌《げん》な|縞《しま》がらスーツの背中。 「アニキぃーっ! 待ってくださいよぉー! どうしたんですかー?」  後ろから、|能《のう》|天《てん》|気《き》な靖夫の声があがった。  幼児状態の智の手を引いて、追いかけてくる。  レイバンのサングラスをかけたヤクザと、ジャニーズ系アイドルふうの|三《さん》|下《した》、それに、白ずくめの美少年……という取り合わせは、異様に目立った。  だが、|境《けい》|内《だい》の|参詣客《さんけいきゃく》たちは、見て見ぬふりをしていた。  平凡な生活を守ろうとする|庶《しょ》|民《みん》の知恵だった。  十分後。  駅前の駐車場から、一台の車が走りだした。  ミッドナイトブルーのベンツだ。  運転しているのは、左門。  助手席に靖夫、後部座席に智が座っている。  三人は、|由《ゆ》|比《い》|ヶ《が》|浜《はま》の智の祖父の家をめざしていた。 「みっちゃんのアニキって、こわもてだけど、本当はいい人なんですよねー」  靖夫は、明るい声でケタケタ笑う。 「ヤス、次の信号で止まったら覚えてろ」 「でも、俺、そういうアニキって好きだなあ」  靖夫は、ニコッと微笑した。  左門は、急に黙りこんでしまった。  後部座席では、智が、無心に『コアラのマーチ』を口に運んでいる。     第三章 |星《ほし》|月《づく》|夜《よ》の|街《まち》で 〈|闇《やみ》|送《おく》り〉本祭を明日に控えた、午後二時。  |京介《きょうすけ》は、|鎌《かま》|倉《くら》市内のホテルのロビーにいた。  海をイメージしたフロアーは、青い照明に照らしだされている。 「珍しいところで会うものだな、|鳴《なる》|海《み》京介」  |皮《ひ》|肉《にく》めいた声が、階段の上から降ってくる。  振り返ると、銀ブチ|眼《め》|鏡《がね》の美青年が立っていた。  長い薄茶の髪と、ハシバミ色の|瞳《ひとみ》。  ホテルのロビーなので、さすがに白衣は|脱《ぬ》いでいる。  |藤《ふじ》|色《いろ》のスーツをきざに着こなしていた。 「|時《とき》|田《た》|忠《ただ》|弘《ひろ》……!」 「覚えていてくれたか。光栄だな」  時田は、クスクス笑いながら、京介に近よってきた。 「今日は、|智《さとる》はいないようだね。そろそろ、ふられたか」 「あんたには関係ねーよ」 「大いに関係あるね。なにしろ、智はわたしのものなんだから。君も、いいかげん、智の周りでキャンキャン|吠《ほ》えるのは、よしたほうがいい。……|妖獣《ようじゅう》にはなりたくないだろう?」 「妖獣……なんだよ、それは」  京介は、|眉《まゆ》をよせる。  時田を|睨《にら》みつけた。  言うことが、いちいち気に食わない。 「おや……まだ知らないのか。それは失敬」  時田は、|優《ゆう》|美《び》に肩をすくめてみせる。 「君は、|天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》の|剣《つるぎ》の|神《しん》|霊《れい》の|化《け》|身《しん》だ。人間じゃない。つまるところ、智のそばにはいられんよ」  |鼠《ねずみ》をいたぶる|猫《ねこ》のような|瞳《ひとみ》。 「え……俺が天之尾羽張の剣の……化身? |冗談《じょうだん》言ってんじゃねーよ、時田忠弘」 「信じる信じないは、君の自由だ、もちろん。ただ、親切心から忠告してあげようと思ったわけだ」 「忠告だとぉ……!?」 (ただの|嫌《いや》がらせじゃねーか……!)  京介は、心のなかで毒づく。 「君の天之尾羽張は、もう使わないことだな。そのまま使い続ければ、君の|魂《たましい》と肉体は引き|裂《さ》かれる。魂は、天之尾羽張の剣本体に吸いこまれ、肉体は、妖獣に変化していく。君は、妖獣になったほうが美しいかもしれないがね」 「……|嘘《うそ》だろ、おい」 「嘘なものか。君は、もう智のそばにはいられない。私にとっては幸いなことに、智は、武器とは相性が悪いのでね。智は、無意識のうちに、|刀《かたな》の化身である君を|拒《きょ》|絶《ぜつ》するだろう。……覚えがないかね」  京介は、思わずたじろいだ。  |緋《ひ》|奈《な》|子《こ》の夢をみて泣いた智。  京介に対して、どこかぎこちなかった智。  あれは、|今朝《け さ》のことだけれど——。 「冗談じゃねーよ! 智が俺を拒絶するわきゃねーよ! いいかげんなこと言うんじゃねえ!」 「大声を出さないでもらえるかね、鳴海京介」  時田忠弘は、わざとらしく、両手を胸のあたりまであげてみせる。  日米ハーフのせいか、オーバーな動作も、そんなに変ではない。 「うるせえんだよっ! てめー、|殴《なぐ》るぞ、しまいにゃ!」  周囲の客が、チラチラとこの二人の様子をうかがっている。  支配人らしい中年の男が、飛んできた。 「お客さま、ほかのお客さまにご|迷《めい》|惑《わく》になりますので……」  |慇《いん》|懃《ぎん》に外へ出るようにと伝える。  京介は、支配人をねめつけた。  今は、目の前にいる人間は、手当たり次第、殴ってやりたい気分だった。 「俺は、人を待ってるんだよ、ここで」 「ほう……君がホテルで待ちあわせとはな。相手は、女か? そんな|粋狂《すいきょう》な女がいるとは思えないがね」  時田は、ククク……と含み笑いをもらす。 (どこまで|嫌《いや》|味《み》なんだよ、てめーは!?)  京介は、|拳《こぶし》を固めた。  時田は、まだ笑っている。 (殴る!)  思わず、京介が決心した時だった。 「|粋狂《すいきょう》で悪かったわねえ、たっちゃん」  まったく|疵《きず》のない、|透《す》きとおった少女の声。  時田が、ギクリ……としたように笑いをやめた。 「ピヨ子……おまえ」  視線が、緋奈子と京介のあいだを、二、三度、行ったり来たりする。  緋奈子は、片手を振って、支配人を下がらせた。  いつの|間《ま》に着替えたものか、着物姿だ。  その名のとおりの、|鮮《あざ》やかな|緋《ひ》|色《いろ》。 「待たせたわね、鳴海京介」 「いや……」  京介は、緋奈子の目を真正面から受けとめた。  |威《い》|嚇《かく》するように、|瞳《ひとみ》に全身の力をこめる。 「なあに、いきなり|殴《なぐ》りこみ? 言っておくけれど、緋奈子は、〈|闇《やみ》|送《おく》り〉のあいだは、けっこう忙しいのよ。|伯《お》|父《じ》の……JOA理事長の代理で来てるの」  緋奈子は、|妖《よう》|艶《えん》に|微《ほほ》|笑《え》んだ。 「智ちゃんがいないのが残念ね。まあ、いいわ。……上へいらっしゃい。緋奈子の部屋で話しましょう」 「そうだな」  京介は、ゆっくりとうなずいた。  心は、決まっていた。 「わたしもついていっていいかな、ピヨ子」  少し|慌《あわ》てたように、|心霊治療師《サイキック・ヒーラー》が、緋奈子に|伺《うかが》いをたてた。 「あら、たっちゃんはお呼びじゃないわよ」 「思春期の男女を、二人っきりで、ホテルのスイートに置いとくわけにはいかんだろ」 「何考えてんだよ、てめーは」  京介は、ちょっと|呆《あき》れた。 (|気色《きしょく》悪いことを考えやがって……) 「たっちゃん、どうしたの? そんなに緋奈子のことが心配?」  緋奈子は、意地悪くささやく。 「いや……。わたしとしては、おまえたち二人につるんでほしくないだけだ」 「つるむ気なんかないわよ」 「俺だってねーよ」  京介と緋奈子は、同時に言う。 「やれやれ……その調子で、|角《つの》|突《つ》きあっていてもらいたいものだ。智を真ん中にして、講和条約でも結ばれたら、目もあてられんからな」  時田は、ぬけぬけと言ってみせる。  その|危《き》|惧《ぐ》は、半永久的に現実にはなりそうになかったが。      *    *  海に面したスイートルーム。  眼下に、|湘南《しょうなん》の海が広がっている。  緋奈子は、一人掛けの|椅《い》|子《す》にもたれて、じっと京介を見つめた。  京介は、ラブチェアーに座り、目を伏せていた。 「智を……なんとかしてやってくれ」 「…………」 「智、|今朝《け さ》も、あんたの夢みて泣いてたんだ。あいつは……まだ心の奥で、あんたのことが好きなんだ。もう……やめてくれ。頼むから、二人で争うのはやめてくれ。智がかわいそうだ」  時田は、バルコニーに追いだされていた。  ガラスごしに、二人の会話を聞き取ろうとしている。  だが、レースのカーテンも閉まっていて、なかの様子はよく見えない。  それでも、京介と緋奈子にしてみれば、かなりの|譲歩《じょうほ》だった。  |廊《ろう》|下《か》に締めだしてもよかったのだ。  だが、やはり、密室に二人きりという状況は、京介も緋奈子も、お互い|嫌《いや》だった。  なんとなく、暗黙の|了解《りょうかい》で、時田をバルコニーに置いた。 「もういいじゃないか。もう充分だよ……。もう、あいつを苦しめないでくれ。頼む……」  緋奈子は、両手で、椅子の|肘《ひじ》|掛《か》けをギュッとつかんだ。  能面のような顔は、無表情だ。  だが、全身を緊張させて、必死に殺気を殺している。  緋奈子は、京介に|嫉《しっ》|妬《と》していた。  一人の女として。  京介には、なぜか、それがわかった。 「あいつ……ですって。ずいぶん親しげね。まるで……智ちゃんが、あなたのもののような言い草じゃない、鳴海京介」 「……あいつは、俺のものじゃない。誰のものでもない。智は、智なんだ」 「じゃあ、あなたがこんなこと言いだす権利はないわ。お|節《せっ》|介《かい》だって……自分で思わない? ねえ、バカなことしてると思わない? 恥ずかしくない? |恋敵《こいがたき》の前で、そんなふうに|懇《こん》|願《がん》しても平気なの……? それは、智ちゃんを手に入れたという自信からなの? 自信があるの……そんなに?」 「自信なんかねえよ。それに……どうして、恥ずかしいんだよ」  京介は、緋奈子の問いに目をあげた。  恐れげもなく、まっすぐ|魔《ま》の|盟《めい》|主《しゅ》を見つめる。  緋奈子は、|憎《ぞう》|悪《お》と|羨《せん》|望《ぼう》を|悟《さと》られまいとするように、顔をそむける。 「恥ずかしいわよ……恥ずかしいに決まってるじゃない。普通なら……!」 「智の幸せを願うのが、どうして恥ずかしいんだ。智の|笑《え》|顔《がお》は|綺《き》|麗《れい》じゃないか。誰だって、あの顔を見たいと思うだろ。あいつは、幸せにならなければいけないんだ。いつも笑ってなけりゃ……。俺だって、この手で、智を幸せにしてやりたい。永遠に幸せなままにしておきたい。俺のそばで幸福にしたい。そんなの、決まってるじゃないか。でも……智が、あんたを好きだっていうんなら……しょうがないじゃないか。俺は、智とあんたとで、幸せになるように願うしかないんだ……」  京介は、なかば自分に言い聞かせながら|呟《つぶや》いた。 「智が好きだ。生まれて初めて、本気になった相手だ。智以上に大事な人間なんて、この世にいない。泣かせたくないんだ。あいつを、幸せにしてやりたい。俺は、どうなってもいいんだ。あいつさえ……笑っていてくれるなら」  京介は、ラブチェアーから|床《ゆか》に|滑《すべ》りおりる。  その場で、|膝《ひざ》を折る。  両手をついた。  |土《ど》|下《げ》|座《ざ》して、緋奈子に頭を下げる。 「お願いだから、智と和解してほしい」 「和解……ですって?」  緋奈子は、|冗談《じょうだん》ではない、という目をする。 「ふざけないでちょうだい! あなた、誰にむかって言っていると思ってるの!?」 「俺は、時田緋奈子、あんたにむかって言ってるんだ。魔の盟主にじゃない。人間対人間として、頼んでるんだ」  京介は、|迷《まよ》いのない|瞳《ひとみ》を緋奈子にむけた。  心底から、智の幸福だけを願って、見つめる。 「頼む……仲なおりしてくれ」  その瞳は、光に|透《す》けて綺麗な|褐色《かっしょく》になる。  まっすぐで、どこまでもお|人《ひと》|好《よ》しで、素直な|眼《まな》|差《ざ》し。  もしかすると、魔の盟主である緋奈子をさえ、信じかねない瞳。  緋奈子は、わずかに|怯《ひる》んだようだった。 「この|瞳《ひとみ》で……智ちゃんを愛したのね」  京介は、ピクリと肩を震わせた。 「|冗談《じょうだん》じゃ……ないわよ」 「緋奈子……さん、こんなかたちで傷つけあって……二人とも不幸じゃないか。智も、あんたも。俺は、もう何も望まない。だから、どうか、智を……楽にしてやってくれ。幸せにしてやってほしい。頼む……お願いします」  カタン……。  小さな音がした。  緋奈子が、立ちあがる。  今にも火を吹きそうな目で、京介を見おろした。 「智ちゃんを手に入れておいて、よくもぬけぬけと……! ほかの誰が言っても許したけれど、あなたにだけは、そんなこと言われたくない! あなたの願いだけは聞いてあげない! 緋奈子は、あなたを許さない! その口、ズタズタにしてしまいたい……!」 「お願いします……お願いだから、智を……!」 「緋奈子を|愚《ぐ》|弄《ろう》しにきたの? 智ちゃんが好きになった人だから、自分は殺されないとでも思ったの? どうして、なんの権利があって、そこまで|傲《ごう》|慢《まん》になれるの? 教えてちょうだい。どうして、平気で緋奈子の前に現れられるの? 命が|惜《お》しくないの? 緋奈子には、わからないわ!」 「智を幸せにしたいんだ! お願いだから、考えなおしてくれ! 頼むから!」 「やめてちょうだい! 傲慢にもほどがある!」 「智と和解すると約束してくれるまで、動かない。絶対、動かない! お願いします、お願いします、お願いします!」  京介は、ムキになっていた。  プライドも、何もかも捨てて、|土《ど》|下《げ》|座《ざ》しているのだ。  智のために。  ここで後へ|退《ひ》くつもりはなかった。 「お願いします、お願いします!」 「あなたの願いだけは、かなえてあげない。どんなに頼んでも|無《む》|駄《だ》よ。絶対に許さない。聞いてあげない。もう、やめてちょうだい……! 時間の無駄だわ!」 「お願いします!」 「やめなさい! 鳴海京介!!」  悲鳴のような|絶叫《ぜっきょう》。  同時に、緋奈子の全身が緋色に輝きはじめた。  すさまじい|霊《れい》|気《き》だ。  ザザザザザッ!  ザザザザザザッ……!  四方から、風のような音が|湧《わ》きあがる。 「いかん! 緋奈子っ!」  時田が、ガラスをぶち破って、室内に飛びこんでくる。  |鋭《するど》い音。  キラキラ輝きながら、飛び散るガラスの破片。  |弾《はず》みで、銀ブチ|眼鏡《め が ね》が|床《ゆか》に落ちた。  長い髪を結ぶ|紐《ひも》が切れる。  ばさ……。  肩から胸にかけて|雪崩《な だ れ》落ちる薄茶の髪。  時田は、瞬間、うつむいた。  |彫像《ちょうぞう》のような美しい顔に、血の筋が流れだす。 「どけっ! 鳴海京介っ!」  時田は、緋奈子にむかって、|五《ご》|芒《ぼう》|星《せい》|印《いん》を結んだ。  カッ……と、視界が白熱した。  ふいに、京介の周囲の床が|粉《こな》|々《ごな》に|砕《くだ》けた。  砕けた床材は、|天井《てんじょう》にむかって、|嵐《あらし》のように吹きあがる。  時田の制止の力と、緋奈子の暴走する力が、京介の頭上で激突したのだ。 「うわあああーっ!」  京介は、両手で顔をかばった。  全身に激痛が走る。床材の破片が、ヤスリとなって、|肌《はだ》をえぐる。 「ああああああーっ!」  体がガク……と|傾《かし》ぐ。  足もとの床が|陥《かん》|没《ぼつ》した。落下の感覚。 「うわ……っ! ああああああーっ!」      *    *  同じ頃、ベンツのなかでは——。  智が、顔をあげた。 「京介……!?」  |突《とつ》|如《じょ》として、|額《ひたい》のあたりを突きぬけた|嫌《いや》な|気《け》|配《はい》。  ドロドロした不安が湧きあがった。 (京介に何か……?)  智は、|怨霊《おんりょう》や|妖《よう》|怪《かい》の苦痛をダイレクトに感じる力を持っている。  |感《かん》|応《のう》能力、という。  その力が、わけもなく智の胸を騒がせている。 (なんだ……どうしたんだろう……)  智の意識が、ゆっくりと正常に戻りはじめる。 「どうした、|鷹《たか》|塔《とう》? 今、何か言ったか?」  |左《さ》|門《もん》が、ステアリングを握りながら、尋ねる。 「降ろして……! 降ろしてください! 京介があぶない!」  智は、すでにドアのロックをはずしかけている。 「何をしている!? やめろ!」  |鎌《かま》|倉《くら》の|街《まち》のなかだ。  前後左右に、ほかの車が走っている。  ここで、智が飛びだしたら、|大《おお》|怪《け》|我《が》をする。  左門は、|舌《した》|打《う》ちした。 「ヤス! 運転代われ! ちょっとだけだ!」 「はいっ、アニキ!」  左門の横から、|靖《やす》|夫《お》がステアリングを握る。  左門は、素早く、|懐《ふところ》から|呪《じゅ》|符《ふ》を取りだした。  窓から投げる。 「|禁《きん》!」  呪符がピカ……ッ! と|赤紫《あかむらさき》に光った。  周囲の車が、|凍《こお》りついたように動かなくなる。  呪符の効果がおよんだのは、十メートル四方ほど。  呪符で動きを|封《ふう》じられた車の最後尾で、|轟《ごう》|音《おん》があがった。  悲鳴と|怒《ど》|号《ごう》。  次々に玉突き|衝突《しょうとつ》が始まる。  左門は、片手で、後ろの車線をちょっと|拝《おが》んだ。 「すまん」  次の瞬間、靖夫からステアリングをひったくる。  わずかな|隙《すき》|間《ま》を縫って、ベンツを歩道に押しこんだ。  塗装がはげるのも、傷がつくのもおかまいなしだ。  幸い、歩道の通行人は逃げていて無事だ。  靖夫が、悲鳴をあげている。 「アニキーっ! 毎日、俺が洗車してるんですよぉーっ! もっと大事にしてください!」 「うるせえ! ベンツごときにガタガタ言うなっ!」  二人の|喧《けん》|嘩《か》を|尻《しり》|目《め》に、智は、歩道に飛びだそうとする。  その時、ガクン……と車体が揺れた。  |鈍《にぶ》い音がした。  誰かが、外からベンツを|蹴《け》りつけたようだ。 「何様や、あんたら。ええかげんにせえ!」  どすのきいた大阪弁。  まだ少年の声だ。 「おう、|因《いん》|縁《ねん》つける気か!? このガキがぁ!」  左門が、負けずに|怒《ど》|鳴《な》りかえす。  智が、車外の声に顔をあげた。  不安に|曇《くも》った|瞳《ひとみ》が、わずかに明るくなった。 「|勝《かつ》|利《とし》|君《くん》……!」      *    * 「ぐ……っ! う……!」  京介は、低くうめいた。  指が、かろうじて|陥《かん》|没《ぼつ》した|床《ゆか》の|縁《ふち》に残っていた。  右手だけで、全身の体重をささえている。  頭上では、緋奈子の|霊《れい》|気《き》が荒れ狂っていた。 (あ……ぶねえ……)  足のほうを見れば、三メートルも下に、階下のフロアーが見える。  落ちたら、確実に死んでいたところだ。  その時、京介の頭上に、人影が落ちた。 「……てめえ……」 「どうして……生きているの、鳴海京介。あのまま落ちて死んでくれれば、緋奈子は、あなたを殺さずにすんだのに」  優しい声で、緋奈子はささやく。  そのまま、ゆっくりと|膝《ひざ》をついた。  穴の縁にむかって、白い手をのばす。  緋奈子の目的は、全身の体重をささえる京介の指。 「どこまでも、運のいい男ね……」 「緋奈子、やめろ」  |心霊治療師《サイキック・ヒーラー》が、|鋭《するど》い声で制止する。 「止める気、たっちゃん? ……裏切るの?」  緋奈子は、素早く振り返った。  |揶《や》|揄《ゆ》するような|眼《まな》|差《ざ》し。 「たっちゃん。どうしたいの? 緋奈子を止めて、鳴海京介の肩を持つの? そこまでして、智ちゃんに|媚《こび》を売りたいの?」 「緋奈子、少し頭を冷やせ」  時田は、肩をすくめた。 「いかにおまえがJOAの次期|宗《そう》|主《しゅ》だろうと、この場で鳴海京介を殺せば、事件をもみ消すことはできないぞ。今、|鎌《かま》|倉《くら》には、JOA所属の|霊《れい》能力者たちの八割が、集結している。必ずしも、おまえの配下にある者ばかりではない。ここで、反乱でも起きれば、〈|汚《けが》れ|人《びと》〉の心臓を手に入れるどころではなくなるぞ。それでもいいのか」  京介は、時田の言葉にギクリとした。 (〈汚れ人〉の心臓を手に入れる……?〈汚れ人〉っていやぁ、智のじーさんじゃねーか……)  緋奈子は、夢から覚めたように、スイートルームを見まわした。  |床《ゆか》|材《ざい》ははがれ、壁はあちこち|崩《くず》れ、窓ガラスも|砕《くだ》け散っている。  |豪《ごう》|華《か》な内装は、|目《め》|茶《ちゃ》|苦《く》|茶《ちゃ》だ。  部屋の中央には大穴があき、京介がぶらさがっている。 「そうね……少しやりすぎたようだわ」 「必要ならば、鳴海京介は|洗《せん》|脳《のう》処理してもいい。少なくとも、わたしの|心霊治療《しんれいちりょう》センターのスタッフは、信頼できる」 「洗脳……?」  緋奈子は、その考えを一分ほど検討したようだった。 「悪くないわ。|呪《じゅ》|殺《さつ》|者《しゃ》に仕立てて、智ちゃんに送りかえしてあげてもいいかもしれない。智ちゃんは、きっと泣くわね。絶対に泣くわ。|綺《き》|麗《れい》でしょうね……智ちゃんの泣き顔は。きっと、ゾクゾクするわ。緋奈子に|跪《ひざまず》いて、|哀《あい》|願《がん》するかしら。鳴海京介を助けてくれたら、なんでもします……って」  緋奈子の表情が、|邪《じゃ》|悪《あく》な喜びに|歪《ゆが》む。 (この女……狂ってる……普通じゃねえ)  京介は、背筋が寒くなるのを感じた。 (話してわかる相手じゃなかったんだ……こいつら……) 「智ちゃんは、どうやったら壊れるかしら。最愛の人が、目の前で、何十人も何百人も人を殺したらどうかしら。|鎌《かま》|倉《くら》に|集《つど》ったすべての|怨霊《おんりょう》の苦痛を受け入れたら、やっぱり発狂するかしらね。智ちゃんには、永遠に緋奈子のこと、忘れてほしくないわ。未来|永《えい》|劫《ごう》、何千回|転《てん》|生《せい》しても、|魂《たましい》に|刻《きざ》んでおいてほしいのよ。智ちゃんを滅ぼすのは、緋奈子だけの特権なんだから」  |恍《こう》|惚《こつ》とした|呟《つぶや》き。 「やめろ……! 聞きたくねーよっ! やめろっ!」  京介は、ぶらさがった姿勢で、精いっぱい、声を振りしぼる。 「智をそんなふうに言うな!!」 「緋奈子の権利よ。あの子は、緋奈子がお|腹《なか》を痛めた子じゃないけど、|前《ぜん》|世《せ》では緋奈子の子供だったのよ。覚えておきなさい、鳴海京介。この世で、母親だけが、自分の子供を食い殺す権利があるの。緋奈子は、智ちゃんを愛してるわ。でも、愛だけじゃ、たりないの。愛だけじゃ、どうしても不足なの。緋奈子は、智ちゃんを壊して、ズタズタに引き|裂《さ》いてしまわなきゃいけない。そうしなければ、緋奈子は、もうどこへも行けないのよ。終わりにしたいの。苦しいのよ」 「智は、あんたの|玩具《おもちゃ》じゃねえよ!」 「|還《かえ》れるものなら……緋奈子だって、還りたかったわ。生まれる前の時間へ……! でも、還ることなんかできないじゃないの。緋奈子は、ここで、この時代に生きていかなきゃいけない。そして、緋奈子と智ちゃんは共存できないのよ。玩具だなんて思ってやしないわ。玩具だったら、緋奈子は、こんなに苦しんだりしなかった。壊したいのよ。……和解しろと言ったわね、鳴海京介。あなたに、時間を戻せる? TVゲームじゃないのよ。リセットボタンなんかないの。あなたに……つい昨日今日、智ちゃんと知り合ったばかりのあなたに……今さら、和解しろなんて言ってほしくない! 何も知らないくせに!」 「緋奈子」  |激《げっ》|昂《こう》した少女にむかって、|心霊治療師《サイキック・ヒーラー》が低く呼びかけた。  |魔《ま》の|盟《めい》|主《しゅ》は、ハッとしたように、口を閉ざした。  |不《ふ》|機《き》|嫌《げん》な視線を|従兄《い と こ》にむける。  時田は、|皮《ひ》|肉《にく》めいた表情で一礼する。 「わたしは、何も見てないし、聞いてないよ、ピヨ子。興味のない話は、聞こえないようになってるんだ。心配するな」 「そう。便利な耳だこと」  緋奈子は、冷ややかに言い捨てる。  京介相手に感情を|露《あらわ》にしてしまったことを、恥じているようだ。 「まあ……いいわ。その子を引きあげてちょうだい、たっちゃん。さっそく|洗《せん》|脳《のう》してあげて」 「|了解《りょうかい》、ピヨ子」  時田は、|床《ゆか》に落ちた銀ブチ|眼《め》|鏡《がね》を拾いあげた。  傷がついていないのを確かめ、ゆっくりと、かけなおす。  緋奈子は、両腕を組み、微笑した。  すでに、動揺から立ち直っているようだ。  満足げな|気《け》|配《はい》。  京介は、その一瞬の緋奈子たちの油断を、|見《み》|逃《のが》さなかった。 (今だ……!)  もう片方の手も穴の|縁《ふち》にかけ、反動をつけた。  思いきり振りあげた片足を、床にのせる。  |背《せ》|骨《ぼね》のあたりで、グキッと|嫌《いや》な音がする。  そのまま、全力で、必死に|這《は》いあがった。 「う……ぐっ……!」  腕は|痺《しび》れているし、無理をしてねじったのか、腰と背中が痛い。  うめき声で、緋奈子がこちらを見た。 「あ……!」  驚きに見開かれる少女の|瞳《ひとみ》。  京介は、片手で|天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》の金属片を引きだした。  |怒《いか》り|心《しん》|頭《とう》に発していた。 「もう|勘《かん》|弁《べん》なんねえ!」  手のひらに、ぴたりと吸いつくような感触。 「天之尾羽張……! やる気!? |妖獣《ようじゅう》になるわよ!」 「かまうもんか! |洗《せん》|脳《のう》されるよかマシだっ! 智をこの手で殺すくらいなら、|潔《いさぎよ》く妖獣になってやるっ! |覚《かく》|悟《ご》しろっ!」  ほとんど、|自棄《や け》だった。  考えるより先に、体が動く。 「|顕《けん》|現《げん》せよ、|降《ごう》|魔《ま》の|利《り》|剣《けん》・天之尾羽張!」  金属片に意識を集中する。  ズキーン!  百万本もの焼けた針でつらぬかれたような激痛。  同時に、純白の光の|刃《やいば》が出現した。  刃渡りは、一メートルほど。  |両刃《りょうば》の|剣《つるぎ》である。  京介は、素早く、緋奈子に|斬《き》りかかった。 「はぁああああーっ!」  緋奈子は、京介の一撃をやすやすとかわした。 「|羅刹衆《らせつしゅう》!」  一声呼ばわる。  緋奈子の足もとの影が、もぞ……と動いた。  影のなかから、二本の|角《つの》がぬっと突きだした。  角は、その下の牛の頭と、人間の体に続いている。  |獣面人身《じゅうめんじんしん》の化け物——羅刹衆だ。 「殺さずに|捕《と》らえなさい。でも、傷はつけてもいいわ」  緋奈子は、|冷《れい》|酷《こく》に|命《めい》じた。  その隣では、時田が腕を組んで、成り行きを見守っていた。  銀ブチ|眼《め》|鏡《がね》のむこうの|瞳《ひとみ》は、少し悲しげだ。  どこか、京介を|哀《あわ》れんでいるようにも見える。 (何を期待してきたのだね、鳴海京介。智を中心として……わたしたちは、誰一人として手を取り合うことはできないのだぞ。平和的な解決など、ありはしない)  声にならない声が、京介の耳に届く。  京介はギクリとして、時田忠弘を|凝視《ぎょうし》した。 (な……に……? 今、なんて……?)  羅刹衆は、影のなかから、続々と|湧《わ》いてくる。  手に手に、|大《おお》|鎌《がま》や|槍《やり》を持っている。  あっという|間《ま》に、京介は、羅刹衆に囲まれた。 「うわああああああーっ!」 (智……ごめん……!)  京介は、|天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》を頭上に|掲《かか》げた。  |降《ごう》|魔《ま》の|利《り》|剣《けん》にむかって、祈る。 (頼む……力をくれ)  京介の全身が、熱くなった。  熱は、両腕を伝って天之尾羽張に吸いこまれていく。  だが、天之尾羽張が、カッと|閃《せん》|光《こう》を放つ前に、緋奈子の手が奇妙な|印《いん》を結んだ。  京介の全身から力がぬけた。そのまま、ずるずると倒れ伏してしまう。      *    * 「|勝《かつ》|利《とし》|君《くん》……」  智は、もう一度、|呟《つぶや》いた。  ベンツを|蹴《け》りつけた不良少年は、|宮《みや》|沢《ざわ》勝利。  JOA所属の元|呪《じゅ》|殺《さつ》|者《しゃ》で、智と京介の共通の友人である。  肩すれすれの長髪、|額《ひたい》に巻いた黄色いバンダナ。  |膝《ひざ》までのパンツに、白と黄色のヨットパーカをはおっていた。  ヨットパーカの下は、|素《す》|肌《はだ》だ。  首には、|革《かわ》|紐《ひも》でつるした銀のペンダントが見える。  身長は、一七八センチくらい。  少したれた目に|愛敬《あいきょう》がある。魅力的なファニーフェイスだ。 「なんや、鷹塔センセやないか」  勝利は、驚いたように、しげしげと智を見つめた。  勝利の後ろには、|華《はな》やかな美女が、二人いる。  年齢は、|二十歳《は た ち》前後だろうか。  片方がショートカットで、片方がソバージュヘア。  ショートカットのほうは、オレンジ色のタンクトップに、白のパンツ。  ソバージュヘアのほうは、|派《は》|手《で》な花がらのワンピースだ。 「やーだぁ、勝利ぃ、この人たち、ヤクザじゃなーい?」 「|怖《こわ》いわぁ」  美女二人は、キャッキャと騒ぎながら、勝利の両腕にしがみつく。 「おまえら、暑苦しいわ。ちょっと離れてんか」  勝利は、少しばかり|冷《れい》|淡《たん》に、美女二人を追いはらう。  靖夫が、|唖《あ》|然《ぜん》としたように、それを|眺《なが》めていた。  高校生くらいの勝利が、|極上《ごくじょう》の美女にもてまくっている。  同じ年頃の靖夫としては、ショックを受けたらしい。 「鷹塔センセ、んなとこで何してるん? 今度は、|極《ごく》|道《どう》の|退《たい》|魔《ま》でも引き受けたんか?」  左門が、無言でベンツを降りた。  |大《おお》|股《また》で、勝利に歩みよっていく。 「アニキ!」  靖夫が、|慌《あわ》てて追いかける。  左門が、勝利に何かすると思ったらしい。 「まずいですよう。智さんの知り合いらしいじゃないですかぁ、アニキぃ!」  智も、歩道に飛びだした。 「やめてください!」  智は、恐れげもなく、勝利の前に立った左門の腕をつかんだ。  |極《ごく》|道《どう》の|呪《じゅ》|禁《ごん》|師《じ》は、サングラスごしにちらと智を見おろした。  |唇《くちびる》の|端《はし》に|笑《え》みを浮かべる。 「あなたが心配することはありませんよ」  そのまま、視線を勝利に戻した。  勝利は、左門を|睨《にら》みつけた。 「なんや、おっさん」  高まる緊張。  美女二人は、要領よく、勝利の背後に隠れる。  通行人が、遠巻きにこの六人を見物していた。  いきなり、左門が勝利に一礼した。 (え……?)  智は、驚いて、左門の腕から手を離す。 「|宮《みや》|沢《ざわ》の坊ちゃん、失礼しました。坊ちゃんとは気づきませんで」 「な……なんや……坊ちゃんは|気色《きしょく》悪いわ。やめてんか」  美女二人が、「坊ちゃん」という単語に、|嬌声《きょうせい》をあげる。 「やっだぁー! 坊ちゃんー? 坊ちゃんだってぇー!?」 「勝利ぃ、すっごいじゃーん! ヤーさんに坊ちゃん呼ばわりされてるぅ! イカスぅ!」 「マミ、|友《ゆ》|里《り》、おまえら、うるさいわ」  勝利は、顔をしかめた。 「ホンマにもう……。いくらなんでも、このおっさんに失礼やろが」  おっさん呼ばわりされた左門|道《みち》|明《あき》、二十九歳は、ピク……と|眉《まゆ》を動かす。  だが、反論している場合ではない、と思ったようだ。 「|不肖《ふしょう》、左門道明、宮沢|遼司《りょうじ》先生には、お世話になったことがございます。あ、私、申し遅れましたが、|黒《くろ》|部《べ》組に|厄《やっ》|介《かい》になって、呪禁師をやっている者で。坊ちゃん……勝利さんのご高名は、かねがね……」  勝利の父の遼司は、地元代議士の秘書だ。  もとはJOA所属の|呪《じゅ》|殺《さつ》|者《しゃ》だが、現在は、能力を|封《ふう》|印《いん》して普通人として暮らしている。  勝利は、|面《めん》|倒《どう》|臭《くさ》そうに、バンダナの位置をなおした。 「|親《おや》|父《じ》は親父や。親父が何しようが、わいには関係あらへん。それより……あんたら、なんでぇ、こないな乱暴な|真《ま》|似《ね》しよったん?」  智と左門は、どちらからともなく顔を見あわせた。 「ええと……鷹塔……先生?」  左門は、智をどう呼んでいいのかわからないようだ。  呼び捨てにしたいところらしいが、勝利が「鷹塔センセ」と呼んでいる手前、それはできない。  困ったような顔をしている。 「勝利|君《くん》、京介が……あぶないんです」  智は、左門の無言の問いを無視した。  自分の呼び方など、どうでもいい。  京介が危機におちいっているのだ。  勝利にすがりつかんばかりにして、訴える。 「オレ、助けにいかなきゃ」 「なんやて……ホンマかいな、鷹塔センセ。ナルミちゃんに、なんかあったんか」 「気のせいかもしれない……。でも、ものすごく胸騒ぎがして……京介がオレを呼んでるんです。助けを求めてるんだ。オレ、助けにいかなきゃ」 「ナルミちゃん、今、どこにいるんや?」  勝利は、|眉《まゆ》をよせた。  智の言葉を笑い飛ばしたりしない。  不良だが、気のいいところがあった。  同じ能力者として、智の|勘《かん》に対して、|全《ぜん》|幅《ぷく》の信頼をよせてもいた。 「たぶん、オレの祖父の家に」 「鷹塔センセの? ああ、〈|汚《けが》れ|人《びと》〉の……」  勝利は、言いかけて、周囲の見物人や美女二人の視線に気づいたようだ。 〈|闇《やみ》|送《おく》り〉の祭りの本当の意味は、一般の市民や観光客には、知らされていない。  もちろん、〈汚れ人〉の存在も、JOA関係者しか知らない。  よけいな騒ぎを避けるためだ。  勝利は、|如《じょ》|才《さい》なく微笑した。 「ほな、移動しながら話そぉか。左門道明……ってゆーたか、あんた。ちょうどええから、運転してや」  智をベンツに押し戻しながら、ベンツの持ち主の左門に言う。  美女二人にむかっては、「そういうわけや」と、片目を|瞑《つぶ》ってみせる。 「|堪《かん》|忍《にん》してや。な、今度、埋めあわせするよって」 「えーっ、マジぃ?」 「ペナルティーよ、勝利ぃ。今度、|南《なん》|洋《よう》|真《しん》|珠《じゅ》買ってよね」  美女二人は、思いのほか、あっさりと去っていった。  勝利は、少し残念そうな顔をする。 「久しぶりのデートやったんやで」  |恨《うら》めしそうな目で智を軽く|睨《にら》み、ペロッと|舌《した》を出した。 「ま、ええわ。みっちゃん、車出してや」 「みっちゃん……!?」  左門の|眉《まゆ》が、またピクッとあがる。 「勝利さん、みっちゃんは|勘《かん》|弁《べん》してくださいよ」 「道明やから、みっちゃんやろ」  勝利は、|屈《くっ》|託《たく》のない|笑《え》|顔《がお》で言い放つ。  左門が|嫌《いや》がっているのは、承知のうえだ。 「みっちゃん、急いでや。鷹塔センセの|相《あい》|棒《ぼう》が危険なんや。頼むわ、みっちゃん」  靖夫が、左門に背をむけて、失笑を必死にこらえる。 「かわいそうな、みっちゃんのアニキ……」  幸い、その声は左門には聞こえなかったようだ。  左門は、|憮《ぶ》|然《ぜん》としたまま、小さく勝利にうなずいた。  智は、後部座席から左門を見つめた。 「お願いします、左門さん」 「|由《ゆ》|比《い》|ヶ《が》|浜《はま》のお宅までお送りすればよろしいんですね」  左門は、|片《かた》|頬《ほお》で微笑してみせた。  だが、内心、まずいことになった……と思っているのはあきらかだ。 「それにしても、なんで、鷹塔センセとみっちゃんが一緒なんや?」  勝利が尋ねる。 「オレも、じつは|不《ふ》|思《し》|議《ぎ》に思ってたんですけど……。気がついたら、この車に乗ってたし……。説明してもらえますか、左門さん」  智は、左門をちょっと|睨《にら》む。 「最初は、あなたを|誘《ゆう》|拐《かい》するつもりでした。|申《もう》し|訳《わけ》ありません、鷹塔先生」  左門は、観念したように、智に頭を下げた。 「しかし、先ほど|円《えん》|覚《かく》|寺《じ》で、鷹塔先生には、|妖《よう》|怪《かい》どもから救っていただきました。命の|恩《おん》|人《じん》です。|極《ごく》|道《どう》の|端《はし》くれとして、先生には大きな借りができてしまいました。……組長からの追っ手が来るようでしたら、私が|阻《そ》|止《し》いたします」  左門は、少し寂しげに言った。  智を誘拐しろというのが、組長の命令ならば、それに|逆《さか》らえば、左門の身は危険にさらされることになる。  |呪《じゅ》|殺《さつ》|者《しゃ》を差しむけてくるかもしれない。 「アニキ……俺がついてますからね」  助手席に座った靖夫が、勇気づけるように、小声でささやく。 「|大丈夫《だいじょうぶ》ですよ。俺がいますから」 「バカ|野《や》|郎《ろう》……おまえがいたからって、どうなんだ」  左門は、勢いよくキーをまわす。  靖夫がシュンとして、うつむいてしまう。  智が見ていると、左門は、あくびを|噛《か》み殺すふりをして、そっと微笑していた。  左門と靖夫のあいだに、形にならない|温《あたた》かなものが通いあっている。  智は、なんとなくホッとした。     第四章 |闇《やみ》|舞《まい》  |京介《きょうすけ》の|行方《ゆ く え》は、|杳《よう》として知れなかった。  |智《さとる》たちの|懸《けん》|命《めい》の|捜《そう》|索《さく》も|無《む》|駄《だ》だった。  |鎌《かま》|倉《くら》の|地《ち》|霊《れい》|気《き》は、正常時の百倍近い闇の重量に|軋《きし》み、悲鳴をあげていた。  この混乱のなかでは、たった一人の人間の霊気を|探《さぐ》りあてることなどできない。  前夜祭の夜が過ぎ、本祭の朝が明けた。 「お|祖父《じ い》さん、|昨夜《ゆ う べ》は、|若《わか》|宮《みや》|大《おお》|路《じ》で|百鬼夜行《ひゃっきやこう》が発生したらしいですよ」 「それは、けしからんな。……ナツ、ご飯をもう一杯じゃ」  この祭りの主役——|鷹《たか》|塔《とう》|虎《こ》|次《じ》|郎《ろう》は、|卓《ちゃ》|袱《ぶ》|台《だい》の前に座っていた。  相変わらず|墨《すみ》|色《いろ》の|作《さ》|務《む》|衣《え》だ。  外の騒ぎをよそに、鷹塔家の|居《い》|間《ま》は、のどかだった。  虎次郎のカラスが、|畳《たたみ》の上を|跳《は》ねて移動していく。  虎次郎の差し出した|茶《ちゃ》|碗《わん》に、|夏《なつ》|子《こ》がかいがいしくご飯をよそう。  ホカホカの|湯《ゆ》|気《げ》と|味《み》|噌《そ》|汁《しる》の|匂《にお》い。  夏子は、涼しげな|灰青色《かいせいしょく》の着物に、白の|割《かっ》|烹《ぽう》|着《ぎ》姿だ。 「これ、智、どうした。ちゃんとメシを食わんと、大きくなれんぞ。だいたい、なんじゃ。いくら夏で暑いといっても、朝っぱらから氷なんぞ食いたがりおって。ほれ、魚も食え」  虎次郎が、|眉《まゆ》をよせて、自分の皿を、智の前に置いてやる。  智は、目の前に置かれた皿を見つめたまま、|硬直《こうちょく》している。  皿にのっているのは、カツオの|刺《さし》|身《み》。  智の|感《かん》|応《のう》能力は、人間や|魔《ま》|物《もの》だけではなく、魚や動物の|怨《おん》|念《ねん》もダイレクトに受信する。 「苦しい……苦しい……」と、声にならない悲鳴をあげつづけるカツオの刺身。  智にとっては、これは|拷《ごう》|問《もん》に等しい。 (京介がいれば……食べてくれるのに……) 「|大丈夫《だいじょうぶ》、智さん?」  心配そうに、ジャニーズ系美少年が、智の顔をのぞきこむ。  卓袱台の上には、智のための氷や、カフェ・オ・レのマグカップもあるのだが、智の目には入っちゃいない。  |靖《やす》|夫《お》は、智の不自然な様子を誤解したらしい。 「やっぱり、お祖父さんとの別れが悲しいんでしょ?」 「ヤス、よけいなことを言うな」  |左《さ》|門《もん》が、|慌《あわ》てて靖夫をたしなめた。  左門と靖夫は、智を送り届けた昨日の午後から、鷹塔|家《け》に泊まりこんでいる。  組長を裏切ったため、もう戻る場所がなくなったせいだ。  |鎌《かま》|倉《くら》は、すでに|霊《れい》|的《てき》|結《けっ》|界《かい》で孤立している。  鎌倉の外に逃げることはできない。  智に|恩《おん》|義《ぎ》を感じている左門たちは、〈|汚《けが》れ|人《びと》〉の|警《けい》|護《ご》を買ってでた。  この屋敷の周囲にも、JOAから|派《は》|遣《けん》された特殊警護部隊三十名がいる。  |昨夜《ゆ う べ》も徹夜で|警《けい》|戒《かい》にあたっていた。  また、|百《もも》|瀬《せ》|麗《れい》|子《こ》も、早朝からこの屋敷に入っている。  今は、別室で|犬《いぬ》|神《がみ》を飛ばして、情報収集にあたっているようだ。  |蟻《あり》の|這《は》いでる|隙《すき》もない厳重な警戒だ。  そのまっただなかで、虎次郎は、|悠《ゆう》|々《ゆう》と三杯目のご飯をたいらげていた。  あっという|間《ま》に|茶《ちゃ》|碗《わん》が|空《から》になる。 「ナツ、お代わりじゃ」 「お|祖父《じ い》さん、ほどほどになさったら」  夏子が、|呆《あき》れたように虎次郎を|睨《にら》む。 「腹も身のうちという言葉がありますよ」 「そうじゃのぉ」  虎次郎は、カラカラと笑う。  |上機嫌《じょうきげん》だ。  左門と靖夫は、そっと目を見かわした。  この老人が、今夜には死んでしまうのだ。  明日の朝、虎次郎はもういない。  みんな、知っていて、口には出さなかった。 「ご機嫌がよろしいこと」  夏子が、少し|寂《さび》しげに微笑する。  老女の横顔は、その一瞬、智によく似ていた。  |綺《き》|麗《れい》で、|透《す》きとおるような表情。 「おう、機嫌はいいぞ。あの|男色家《だんしょくか》がいなくなったからなっ」 「京介さん、どうなさったんでしょうねえ。ねえ、智、心配だわ」  夏子は、いたわるような|瞳《ひとみ》を|孫《まご》にむける。 「あらあら……|食《しょく》が進まないじゃないの。どうしたの、智」 「ナツ、あんな男の心配なぞするなっ」  虎次郎が、ズズッと|味《み》|噌《そ》|汁《しる》をすすりながら、|怒《ど》|鳴《な》る。 「わしは、絶対に智との仲を認めたりせんぞっ! |汚《けが》らわしい|男色家《だんしょくか》めが!」  うつむいていた智が、顔をあげた。  身につけたコットンシャツより白い顔。 「お|祖父《じ い》さま、京介のこと、そんな言い方しないでください。オレの大事な友達なんです」 「智……」  虎次郎は、驚いたように目を見開く。  |眼《がん》|帯《たい》をしていないほうの右目が、|憤《ふん》|怒《ぬ》の光を宿した。  |片《かた》|膝《ひざ》を立て、はっしと智を|睨《にら》みつける。  今にも、|卓《ちゃ》|袱《ぶ》|台《だい》をひっくりかえしそうな姿。 「おまえは、あんな男をかばう気か、智!? 許さんぞっ!」  だが、智は、虎次郎の言葉を待たずに立ちあがった。  もちろん、カツオの|刺《さし》|身《み》には、目もくれない。 「ごちそうさまでした。オレ、食欲なくて……すみません」  言い捨てて、素早く|居《い》|間《ま》から走り出た。 「待てい、智! 待たんかっ!」 「智!」  智は、後ろも見ずに、自室に駆けこんでいった。  虎次郎の|怒《ど》|鳴《な》り声も、夏子の驚きの声も無視する。  朝の食卓に、|白《しら》|々《じら》とした空気が|漂《ただよ》う。  虎次郎は、|苦《にが》|虫《むし》を|噛《か》みつぶしたような顔になった。  左門と靖夫は顔を見あわせ、早々に自室に引き取った。 「お祖父さんがいけないんですのよ」  卓袱台の上を片づけながら、夏子が|呟《つぶや》く。 「智が、京介さんを好きなのは、見ていればわかるじゃありませんか。大好きな人のことをあんなふうに言われたら、智でなくたって怒りますよ」 「…………」  虎次郎は、そっぽをむいている。  肩にカラスがとまって、カアと鳴く。 「いい子ですよ、京介さんは。元気がよくて、ちょっと乱暴だけれど……根は優しい子ですよ。昨日も、智のために、説明しにきたんですの」  夏子は、思い出して少し微笑した。 「智は、朝は氷しか食べないんだ……って。あたしが驚いたら、『でも、胃が冷えないように、すぐ熱いカフェ・オ・レを飲ませてやってください。俺、毎朝、そうしてやってますから』って言って。照れたみたいに笑ってねえ。いい|笑《え》|顔《がお》でしたよ。血のつながったあたしたちより、智のこと、よくわかっているんですね」  虎次郎は、無言だった。 「あのね、お|祖父《じ い》さん、あたし、京介さんの笑顔を見ていると、思い出すんですよ」  カラスが、虎次郎の耳を軽くつついて、遊んでくれとねだる。  虎次郎は、うんざりしたように、夏子を見た。 「何を思い出すんじゃ」 「昔の虎次郎さん……」  夏子は、|懐《なつ》かしげな|瞳《ひとみ》を宙にむけた。 「あなたが|二十歳《は た ち》で、あたしが十七歳で。終戦の翌年でしたねえ。出会った頃の虎次郎さんも、あんなふうに色黒で、暴れん坊で……|怖《こわ》い目をしてましたねえ。でも、あたしはぜんぜん怖くなかった。だって、めったになかったけど、あなたの笑顔は、そりゃあ優しかったもの。京介さんを見てると、あの頃の虎次郎さん、思い出すんですよ」 「わしをあんな|若《わか》|造《ぞう》と一緒にするな、ナツ」 「だから、智は京介さんに預けておいても|大丈夫《だいじょうぶ》ですよ」  夏子は、虎次郎の反論など意に介さない。  きっぱりと言って、ニコッと笑う。  虎次郎は、言葉を失って、口のなかで|唸《うな》る。 (わしらの|孫《まご》が|男色家《だんしょくか》になってもいいのか……ナツ……?) 「あなたも、お父さまの反対を押し切って、あたしと一緒になってくれましたもの。〈|闇扇《やみおうぎ》〉は|継承《けいしょう》しない。鷹塔の名を捨ててもいい。普通の人間の生き方をするんだ……って宣言なさって。でも、やっぱり時期がきたら、あなたも、お父さまの|最《さい》|期《ご》の呼び声に引き寄せられて、|吹雪《ふ ぶ き》のなかにさまよい出ていって……帰ってきた時には、〈|汚《けが》れ|人《びと》〉になってらした。……いいえ、それを責めてはいませんのよ。思いのままに生きるあなたが、好きでしたもの。そんなあなただから、ついてきましたのよ。何十年も、日本国じゅう、一緒に歩きましたねえ。楽しかった……。感謝していますわ、こんな素晴らしい人生をくださって」 「やめんか、ナツ」  困ったように、虎次郎が言う。 「おまえの人生は、まだ続くんじゃぞ」  夏子は、ただ|微《ほほ》|笑《え》むだけだった。  静かな笑顔。  虎次郎の|怒《いか》りも|苛《いら》|立《だ》ちも、すべて受けとめるような優しい瞳。  長い年月、夏子は、こうやって、いつも虎次郎のそばにいたのだ。  虎次郎一人のための|菩《ぼ》|薩《さつ》となって、|傍《かたわ》らを歩き続けた。  虎次郎は、目を伏せた。 「智が気立てのいい娘と結婚して、|孫《まご》をボロボロ作ってくれんと……おまえは、|独《ひと》りぼっちになってしまうわい」  夏子は、静かに虎次郎のそばによった。  |皺《しわ》のよった手で、やはり皺だらけの虎次郎の手をとる。  そっと、|温《あたた》かな|頬《ほお》に押しあてた。 「|大丈夫《だいじょうぶ》ですよ、お|祖父《じ い》さん。あなたと一緒にめぐり歩いたこの国が、残りますもの。無事に、|闇《やみ》が|浄化《じょうか》されて残りますもの……」 「ナツ……」 「この国のどんな場所にも、虎次郎さんの|足《あし》|跡《あと》が残ってるんですよ。あなたの愛した土地も、泊まった宿も、好きでよく召しあがった食べ物も……きっと残りますよ。|寂《さび》しくなったら、あたしは、今度は一人で旅して歩きますの」  夏子の頬に、一筋、涙が伝った。 「だから、どうか、智と|喧《けん》|嘩《か》したまま|逝《い》かないでくださいね」 「む……」  虎次郎は、不満げに|唸《うな》った。  だが、|嫌《いや》だとは言わなかった。      *    *  |鎌《かま》|倉《くら》|二《に》|階《かい》|堂《どう》の|黒《くろ》|部《べ》組長邸。 「〈|汚《けが》れ|人《びと》〉は、十時に家を出る。本祭の|山車《だ し》は、十一時に|鶴岡八幡宮《つるがおかはちまんぐう》を出発し、三時間かけて鎌倉市内を練り歩く。〈汚れ人〉は、そのあいだ、鶴岡八幡宮の|本《ほん》|宮《ぐう》で|精進潔斎《しょうじんけっさい》し、〈闇送りの儀〉に備える」  |紋《もん》|付《つ》き|袴《はかま》姿の老人——黒部|銀《ぎん》|次《じ》は、目の前の男をちらと見た。  |熊《くま》のような男だ。  小太りの体、毛深い|肌《はだ》、|二《ふた》|重《え》|目《ま》|蓋《ぶた》。  年齢は、四十五、六歳というところか。  夏のさなかだというのに、茶色い|革《かわ》のベストを着ていた。  |熊《くま》|飼《がい》|建《けん》|造《ぞう》。  流れ者の|呪《じゅ》|殺《さつ》|者《しゃ》集団〈|揚《あげ》|羽《は》〉の|頭《かしら》である。  熊飼のもとで、手足のように動く呪殺者たちは、十数名。  金さえ出せば、実の親でも呪殺するような連中ばかりだ。  黒部は、|昨夜《ゆ う べ》、〈|揚《あげ》|羽《は》〉を丸ごと|雇《やと》った。  黒部は、左門を信用していなかったのだ。  相手は、天才|陰陽師《おんみょうじ》・鷹塔智である。  左門の腕では、仕損じるかもしれない。あるいは、情にほだされて裏切るかもしれないと思っていた。 「|精進潔斎《しょうじんけっさい》のあいだは、JOAの|警《けい》|戒《かい》が厳重だ。また、鷹塔虎次郎の|霊力《れいりょく》も温存されている。油断はできん。強行突破するのは難しかろう。午後二時半、〈|汚《けが》れ|人《びと》〉は、|鶴岡八幡宮《つるがおかはちまんぐう》中央の|舞《まい》|殿《どの》に姿を現す。舞殿には能舞台がある。〈汚れ人〉は、この舞殿の四方に|結《けっ》|界《かい》を張り、最後に|闇《やみ》を体内に招きよせ、|浄化《じょうか》するための〈闇舞〉を舞う。この間、二時間。〈汚れ人〉は、まったく無防備となる。|熊《くま》|飼《がい》、この〈闇舞〉の時間を|狙《ねら》え」 「は……」  熊飼は、|恭《うやうや》しく頭を下げた。 「〈汚れ人〉の心臓、必ず手に入れてお目にかけましょう」 「頼んだぞ、熊飼」  黒部は、ニヤリと笑った。  失敗する気はしなかった。      *    *  同じ頃、|鎌《かま》|倉《くら》市内のホテルでは——。  大破したのとは別のフロアーにあるスイートルームだ。  |緋《ひ》|奈《な》|子《こ》が、二つの姿の前に立っていた。  一人は、|美《び》|貌《ぼう》の|心霊治療師《サイキック・ヒーラー》。  |藤《ふじ》|色《いろ》のスーツ姿だ。片手に、白衣を持っている。  もう一人は、色黒の少年——京介だ。  だが、|瞳《ひとみ》が|虚《うつ》ろで、一目で普通の状態でないと知れる。  誰が着せたものか、黒いタキシード姿。 「これを……」  緋奈子は、金銀二つの鈴を二人に差し出した。  金色のほうを|時《とき》|田《た》に、銀色のほうを京介に手渡す。 「金色の鈴は〈|召魔《しょうま》の鈴〉、銀色の鈴は〈|召魂《しょうこん》の鈴〉。持っていらっしゃい」  心霊治療師は、興味深そうに金色の鈴を振ってみた。  音はしない。 「鳴らないよ、ピヨ子」 「たっちゃんの〈|召魔《しょうま》の鈴〉は、|妖《よう》|怪《かい》と|鬼《おに》を呼びよせる鈴よ。本気で鬼や妖怪を呼ぼうと思って振らなければ、音はしない。|鳴《なる》|海《み》京介の鈴は〈|召魂《しょうこん》の鈴〉。|怨霊《おんりょう》を招きよせるわ。二人とも、今日の午後二時三十分、〈|汚《けが》れ|人《びと》〉が|鶴岡八幡宮《つるがおかはちまんぐう》の|舞《まい》|殿《どの》にあがったら、鈴を振りなさい」 「はい……緋奈子さま……」  のろのろと京介が答える。  |緩《かん》|慢《まん》な動きで、鈴をポケットに|滑《すべ》りこませた。 「怨霊と魔を鶴岡八幡宮に呼びよせて、どうするつもりだ、ピヨ子?」  時田は、目の前で、もう一度金の鈴を振ってみせた。  やはり、音はしない。  |皮《ひ》|肉《にく》めいた笑いが、|端《たん》|正《せい》な顔に浮かんでいる。 「智ちゃんの動きを|封《ふう》じるわ。|鎌《かま》|倉《くら》に集まった数千数万の怨霊の苦痛を、すべて智ちゃんのなかに流しこむ。発狂するでしょうね……たぶん。智ちゃんさえいなくなれば、〈汚れ人〉の心臓を奪うのは|造《ぞう》|作《さ》もないことよ。あとは、妖怪と鬼で会場を混乱させ、その|隙《すき》に緋奈子がかたをつける。……簡単なことでしょ、たっちゃん。協力してくれるわね」 「協力するにやぶさかでないがね」  時田は、肩をすくめた。 「どうして、わたしが〈召魔の鈴〉なんだね、ピヨ子。わたしが、この国のグチョグチョした妖怪や鬼が嫌いだってことは、知っているだろう? わたしは、洋物の魔が好きなんだよ。悪魔や|吸血鬼《きゅうけつき》なら、いくら来てもかまわんが、和製の魔物はごめんだ」  この|美《び》|貌《ぼう》の青年は、アメリカに帰れば、|心霊治療師《サイキック・ヒーラー》としてだけではなく、超一流の黒魔術師としても知られていた。  悪魔や吸血鬼なら、いくら来ても……という言葉に|偽《いつわ》りはない。  だが、緋奈子は、|従兄《い と こ》の訴えを右から左に聞き流した。 「〈召魂の鈴〉は、鳴海京介が振るから意味があるのよ。……この子に、智ちゃんを壊す手伝いをさせたいの。|正気《しょうき》に戻ったら、どんな顔するかしらね。その顔を見てから、ゆっくり殺してあげるわ」 「ピヨ子、ずるいぞ。自分だけ楽しそうだ」 「たっちゃんは、妖怪や鬼なんか、|怖《こわ》くないでしょ。魔術なんか使わなくても、指一本で、風船みたいに|破《は》|裂《れつ》させられるじゃない。ご自慢の|黄《おう》|金《ごん》の指でしょ。ゴールドフィンガー時田って呼んであげるわね」  緋奈子は、意地悪く笑う。 「誰がゴールドフィンガー時田だ。……わたしは、とにかくこの国のものは、智と|寿《す》|司《し》以外は好きじゃないんだ。|妖《よう》|怪《かい》も|鬼《おに》もまっぴらだね。〈|召魔《しょうま》の鈴〉を振りたければ、おまえが自分で振るんだな」  |美《び》|貌《ぼう》の|心霊治療師《サイキック・ヒーラー》は、|従妹《い と こ》を|睨《にら》みつけた。  かなり|不《ふ》|機《き》|嫌《げん》になっている。  緋奈子は、少し首を|傾《かし》げた。 「ま……たっちゃんてば、わがままよ。どうしたの?」 「あっちの鈴でなければ、協力はお断りだ」  時田は、京介のほうを指差す。 〈|召魂《しょうこん》の鈴〉を手に入れるまで、がんとして動かない構えだ。  緋奈子は、いぶかしげな顔になった。 (どういうこと……? どうして〈召魂の鈴〉にこだわるの?)  緋奈子自身は、JOA代表として〈|闇《やみ》|送《おく》り〉に参列するため、あまり|表《おもて》だった動きはできない。  鈴を振るところを目撃されたら、立場上、まずいことになるだろう。 〈|汚《けが》れ|人《びと》〉の心臓を手に入れてからならともかく、その前に公然と魔の|盟《めい》|主《しゅ》の名乗りをあげるのは、危険だ。 「わかったわ……」  緋奈子は、|緋《ひ》|色《いろ》の着物の|膝《ひざ》のあたりをパンと払った。  腕を組んで、|従兄《い と こ》を睨み|据《す》える。 「今度だけよ。〈召魂の鈴〉と取り替えなさい。でも、タイミングははずさないでちょうだいね」 「ありがとう、緋奈子。うれしいよ」  |謎《なぞ》めいた|笑《え》みが、心霊治療師の|頬《ほお》をかすめる。  |嘲《あざけ》るような|眼《まな》|差《ざ》しを、魔の盟主にむける。  その一瞬、銀ブチ|眼《め》|鏡《がね》のむこうの|瞳《ひとみ》が、色を変える。  |鮮《あざ》やかなエメラルドグリーンの|邪《じゃ》|眼《がん》。  が、ちょうど京介のほうを見ていた緋奈子は、それに気づかなかった。      *    *  旧式の時計が、十時半を打った。  三十分ほど前、虎次郎はこの屋敷を永遠に去った。  すでに、JOAの車が、虎次郎を|鶴岡八幡宮《つるがおかはちまんぐう》へ運んでいるだろう。 「黒部組の組長が、|昨夜《ゆ う べ》、|呪《じゅ》|殺《さつ》|者《しゃ》集団〈|揚《あげ》|羽《は》〉を|雇《やと》ったそうよ。何がなんでも、〈汚れ人〉の心臓を|狙《ねら》う気らしいわ」  |麗《れい》|子《こ》が、|居《い》|間《ま》に入ってきた。  スーツの肩に、|緋《ひ》|色《いろ》の|犬《いぬ》|神《がみ》をのせている。  十センチほどの、|狐《きつね》に似た|霊獣《れいじゅう》である。  犬神は、ビーズ玉のような真っ黒の目をしきりに動かしている。  時おり、不安げにチィチィ鳴いてみせる。  |鎌《かま》|倉《くら》の濃い|闇《やみ》に、落ち着かなくなっているらしい。  居間には、智、左門、靖夫、それに、さっき車で駆けつけた|勝《かつ》|利《とし》の四人がいた。 「オヤジが……俺以外にも|呪《じゅ》|殺《さつ》|者《しゃ》を……」  左門は、|逞《たくま》しい肩をおとした。  レイバンのサングラスが、|寂《さび》しそうだった。 「そうですか」 「アニキ……」  靖夫が、|慰《なぐさ》めるように左門の腕に手を置く。  長い|睫《まつ》|毛《げ》をあげて、|潤《うる》んだような|瞳《ひとみ》を年上の男にむける。  場違いなほど|可《か》|憐《れん》な姿。 「俺がいますよぉ。俺がついてますからね」 「バカ|野《や》|郎《ろう》……」  左門は、力なく|呟《つぶや》く。 「そういう問題じゃねーよ……」  勝利は、この|極《ごく》|道《どう》とジャニーズ系美少年の組み合わせに、少し|鳥《とり》|肌《はだ》をたてている。 (こいつら……かなり変や……)  智が、ゆっくりと麗子を振り返る。  |凜《りん》とした瞳には、|不《ふ》|思《し》|議《ぎ》な落ち着きがある。  四十分ほど前、虎次郎に呼ばれて、「おまえに〈|闇扇《やみおうぎ》〉を託す」と言われたためだ。 「ヤクザごときに、お|祖父《じ い》さまは殺させませんよ」 「緋奈子も動きだしたと言ったら?」  麗子は、|探《さぐ》るような瞳で智を見つめた。 「彼女の狙いも〈汚れ人〉の心臓よ。ヤクザに、|魔《ま》の|盟《めい》|主《しゅ》に、呪殺者集団〈|揚《あげ》|羽《は》〉……これだけそろったら、いくらあなたでもつらいでしょ、智」 「麗子さん」  智は、|謎《なぞ》めいた微笑を浮かべた。 「オレは、緋奈子と決着をつけますよ。オレが終わりにします。何もかも」 「智……無理はしないでね」 「|大丈夫《だいじょうぶ》ですよ」  智は、すべてを断ち切るように、身を|翻《ひるがえ》した。  |潔《いさぎよ》い姿は、まったく不安を感じさせない。 「行きます」  麗子たちは、智に続いて屋敷を出た。      *    * 「鷹塔センセ、|式《しき》|神《がみ》はどうするん?」  |勝《かつ》|利《とし》が、ベンツの後部座席で、尋ねる。  運転しているのは、左門だ。  助手席に靖夫、後部座席に智、勝利、麗子が乗っている。  前後に、JOAの|警《けい》|護《ご》の車が、目立たないように走っていた。 〈|汚《けが》れ|人《びと》〉の後継者の智をガードしている。  五人は、|鎌《かま》|倉《くら》市内を|鶴岡八幡宮《つるがおかはちまんぐう》へむかっていた。  |若《わか》|宮《みや》|大《おお》|路《じ》を走っている。  前方に、鶴岡八幡宮の赤い|鳥《とり》|居《い》が見えた。  沿道には、真っ白な|紙《かみ》|吹雪《ふ ぶ き》が散っていた。 〈汚れ人〉の鶴岡八幡宮到着にあわせて、ヘリで空から|撒《ま》いたらしい。  |神楽《か ぐ ら》と|太《たい》|鼓《こ》の音が、聞こえてくる。  鶴岡八幡宮の周囲には、|人《ひと》|垣《がき》ができていた。 「式神?」  智が、|訊《き》きかえした。 「鷹塔センセ、まだ四体を同時には使えないやん。今回、敵は本気や。全力出さんと勝てへんで」  智は、|記《き》|憶《おく》と一緒に、必要な|咒《じゅ》を忘れてしまっている。  式神を|召喚《しょうかん》するには、CDに録音した咒を再生する必要がある。  それも、ディスク一枚につき、一体の式神だ。  四体全部を、同時に召喚することはできない。  勝利は、智の記憶|喪《そう》|失《しつ》の理由について、くわしいことは知らない。  だが、薄々は|勘《かん》づいているようだった。  ベンツは、JOA職員の|誘《ゆう》|導《どう》に従って、所定の駐車場に入る。  周囲には、高級車ばかりが並んでいた。 「そこにぬかりはないわ」  ベンツを降りた麗子が、自信満々で口をはさむ。  |犬《いぬ》|神《がみ》が、スーツの肩にのっていた。  麗子の言葉にあわせて、チィチィと|威《い》|張《ば》ったように鳴く。 「あたしに、|秘《ひ》|策《さく》があるのよ」 「秘策……?」  智と|勝《かつ》|利《とし》も外に出た。  顔を見あわせる。  周囲の|杉《すぎ》|木《こ》|立《だち》から、|蝉《せみ》|時雨《し ぐ れ》が降ってくる。 「|伊達《だ て》に、智の|後《こう》|見《けん》|人《にん》はやってないわよ。あたしは、智の戦闘パターンを分析して、ありとあらゆるデータを集めたわ。そして、智の能力を最高レベルまで引き出す戦闘法を編みだしたのよ」  最後にベンツから降りた左門の広い背中が、緊張する。  靖夫も、肩ごしに麗子を振り返った。  勝利が、ゴクリ……と|唾《つば》を|呑《の》みこむ。 「|百《もも》|瀬《せ》のあねさん、その秘策ゆうのは?」  麗子は、気をもたせるように、一呼吸、沈黙した。 「知りたい?」 「なんや、あねさん?」  |勝《かつ》|利《とし》が、興味深げに尋ねる。  麗子は、ベンツに歩みより、トランクに手をかけた。  四人は、自然に麗子の周りに集まってきた。  麗子は、うっすらと|微《ほほ》|笑《え》んだ。 「|覚《かく》|悟《ご》はいいわね、みんな」 「あ……ああ、ええで」  勝利がうなずく。 「中身、何かな、アニキ」 「シッ……静かにしろ、ヤス」  息づまるような数呼吸。  |緋《ひ》|色《いろ》の|犬《いぬ》|神《がみ》が、麗子の手もとに舞いおりた。  麗子がゆっくりと、トランクを開く。 「ああっ……!」 「え……|嘘《うそ》やろ……」 「なんだ、これは!?」  三者三様の声があがる。  智は、無言だった。 「…………」  ただ、わずかに目をあげて、麗子を見た。  トランクのなかには、黒いCDラジカセが四台。  |式《しき》|神《がみ》一体につき、一台のCDラジカセを使え、ということらしい。 「ほら、これがあれば、式神、四体とも使えるわよ」  麗子は、満足げに言う。 「あれだけ気ぃもたせた|秘《ひ》|策《さく》が、これかいな」  勝利が、脱力したような声で|呟《つぶや》く。 「単純な物量作戦ですね」  智が、ぼそりと呟く。 「さすが、智さんの|後《こう》|見《けん》|人《にん》ですねっ」  靖夫が、キラキラ輝く|瞳《ひとみ》で言う。 「それ、どういう意味です、靖夫君?」  智の声が、一オクターブ低くなる。  |凜《りん》とした瞳が、きつくなった。  シベリアンハスキーのような|怖《こわ》い目つき。  ジャニーズ系美少年の靖夫とは、迫力が違う。  靖夫は、あわあわと|慌《あわ》てふためいて、左門の広い背中に隠れた。 「アニキぃ、智さんが怒ったぁ!」 「バカ|野《や》|郎《ろう》! おまえがいらんこと言うからだ!」  左門は、靖夫の細い首根っこをつかまえて、ポカポカ|殴《なぐ》る。 「い……痛い……っ! アニキぃ……!」  かすれた声で、靖夫が|哀《あい》|願《がん》する。  悩ましい|仕《し》|草《ぐさ》で、左門の腕に抵抗している。 「やめて……お願い……っ!」  左門は、|火傷《や け ど》したように靖夫から手を離した。  |呪《じゅ》|殺《さつ》|者《しゃ》の|頬《ほお》が赤らんでいる。  それは強い夏の|陽《ひ》|射《ざ》しのせいだけでは、たぶん、ない。 「ヤス! こらぁ! |気色《きしょく》悪い声出すんじゃねえよ!」  |虚《きょ》|勢《せい》を張って大声を出す。  靖夫は、ビクッとして、身を縮めた。  薄い肩が、|小《こ》|刻《きざ》みに震える。 「ごめんなさいっ……アニキ……俺、バカだから……」  うるうるの|瞳《ひとみ》が、左門を見あげた。  長い|睫《まつ》|毛《げ》に、もう、|真《しん》|珠《じゅ》のような涙の|粒《つぶ》が光っていた。  |麗《れい》|子《こ》が、左門と靖夫に、くるっと背をむけた。  いきなり、化粧直しを始めた。  どこから取りだしたのか、コンパクトとルージュを持っている。 「何やってるん、あねさん?」 「あれが終わったら、教えてちょうだい」  麗子は、|勝《かつ》|利《とし》にむかって、左門と靖夫を目で示す。 「さっきは、あねさんが、|率《そっ》|先《せん》して|派《は》|手《で》なボケかましよったくせに、|他人《ひ と》のボケには冷たいんとちゃう?」 「誰がボケかましたって?」  麗子は、腕を組んで、勝利をねめつけた。 「あたしは、智のために、最善の方法を考えてあげたの」 「さいでっか」 「そうよ」 「ほなら、そういうことにしておきまひょ。|綺《き》|麗《れい》なねーちゃんに優しいのが、わいの|身上《しんじょう》や」 「わかればいいのよ、わかれば」  麗子は、ふふんと鼻で笑う。  左門と靖夫も、ようやく落ち着いたようだ。 「終わったみたいやで、あねさん」 「そう」  麗子は、パチンと音をたてて、コンパクトを閉じた。  ルージュと一緒に、スーツのポケットに落としこむ。 「さて、靖夫君、こっちにいらっしゃい」 「俺……ですかぁ?」  靖夫は、恐る恐る、麗子に近よる。  麗子の満足げな|笑《え》|顔《がお》が、なんだか|怖《こわ》いようだ。 「ほらほらっ! もたもたしない! キビキビ動く!」 「はっ、はいっ!」  条件反射で駆けよった靖夫に、麗子は、黒いCDラジカセをポンと手渡す。 「持ってて」 「え……?」 「どうせ、あなた、術は使えないんでしょ。CDラジカセ守って、智の|援《えん》|護《ご》しなさい。若いんだから、体力だけはあるでしょ」 「はあ……」  靖夫は、ダブルデッキのCDラジカセを左手に持ち、目をパチクリさせる。  状況が、まだよくわかっていないらしい。 「ふーん……右手が|空《あ》いてるわねえ、靖夫君」  麗子は、ニヤリとする。 「もう一つ持てるわよねえ。男の子だもの」 「え……?」  |茫《ぼう》|然《ぜん》としている|間《ま》に、靖夫のCDラジカセが、もう一つ増える。 「さあ、どんどん演奏始めちゃって」  麗子は、手をのばして、両方の演奏ボタンを押す。  ふいに、セクシーな男性ヴォーカルと、演歌が流れだす。  音楽に重なって、|召喚《しょうかん》の|咒《じゅ》が聞こえる。  すさまじい不協和音だ。  智が、顔をしかめた。 「チャオー! 呼ばれて飛び出てジャジャジャジャーン! |紅葉《も み じ》ちゃん、|参上《さんじょう》っ!」 「人生、山あり谷あり。|上主《じょうしゅ》とともに|苦《く》|節《せつ》八年。今、|大《たい》|輪《りん》の花を咲かせます。花も|嵐《あらし》も踏みこえて……|吹雪《ふ ぶ き》、|参上《さんじょう》っ!」  いきなり、二体の|式《しき》|神《がみ》が出現した。  金茶の髪、明るい茶色の|瞳《ひとみ》は、言わずと知れた紅葉。  さすがに、紅葉がらの|浴衣《ゆ か た》は|脱《ぬ》いでいる。  原色系のシャツと短パン姿だ。 「よっ、こんち、これまた、みなさん、おそろいでっ! おいらのことは、紅葉のもっクンて呼んでねー」  紅葉は、陽気に騒ぎながら、靖夫と左門にVサインしてみせる。  靖夫と左門は、顔を見あわせた。 「明るい式神だな」 「そ、そうですね、アニキ……」  二人の視線が、紅葉の隣の吹雪に移る。  靖夫が、|喉《のど》の奥で「グヒ」というような音をたてた。  ど演歌をバックにしょって立っているのは——。  身長二メートルを軽く|超《こ》える筋肉男だ。  こちらは、浴衣姿。  夏子が作ったものだろうか。雪の|結晶《けっしょう》のがらだ。  はだけた胸もとには、|瘤《こぶ》のような筋肉が盛りあがっていた。  短く刈りあげた真っ黒な髪、太い首、ぎょろりとした目。  ごつくて大きな足には、|下《げ》|駄《た》を|履《は》いている。  吹雪という|耽《たん》|美《び》な名前が、これほど似合わない存在もないだろう。 「おう、おぬしら、新顔だな」  吹雪は、ニヤリとした。  外見どおり、ドスのきいた重低音の声だ。 「こ……こんなのと一緒に戦うんですかぁ、アニキぃ……俺、やですよぉ」 「バカ|野《や》|郎《ろう》! 式神なんてのはなあ、強ければいいんだ、強ければ。外見じゃねーんだよ」  左門が、自分に言い聞かせるように言う。  |勝《かつ》|利《とし》が、腹を|抱《かか》えてゲラゲラ笑っている。  その肩に、|麗《れい》|子《こ》の手がかかった。 「笑ってる場合じゃないわよ、勝利君」 「な、なんや、|百《もも》|瀬《せ》のあねさん」 「CDラジカセは、あと二台あるのよ。ほら、早く持ってね」  麗子は、ニッコリ笑って、勝利の手にCDラジカセを押しつける。  |有《う》|無《む》を言わさず、演奏ボタンを押した。  アップテンポの曲と、クラシックが、不協和音に重なる。  すさまじい騒音。  数秒遅れて、さらに二体の式神が現れた。 「|上主《じょうしゅ》、|四《し》|識《しき》|神《じん》第一の将・|睡《すい》|蓮《れん》、お呼びにより、|参上《さんじょう》つかまつりました」  睡蓮は、背中まである長髪の美少年だ。  背格好や顔だちは、智と|瓜《うり》|二《ふた》つ。  だが、|雰《ふん》|囲《い》|気《き》が違う。  どこか|妖《よう》|艶《えん》で、|退《たい》|廃《はい》|的《てき》な|翳《かげ》りを帯びている。  黒いノースリーブのシャツと、ブラックジーンズを身につけていた。 「天が呼ぶ、地が呼ぶ、|悪《あく》を倒せと人が呼ぶ……天下一美青年・|桜良《さ く ら》様、|参上《さんじょう》!」 「ど……どないな基準で式神作ったんや……鷹塔センセ」  |勝《かつ》|利《とし》が、息も絶え絶えに|呟《つぶや》く。  桜良は、|優《ゆう》|雅《が》に肩をすくめてみせる。  アーリア系を思わせる冷たい|美《び》|貌《ぼう》だ。  四体の式神のなかで、いちばん顔がいい。  高い|鼻梁《びりょう》と、澄んだ水色の|瞳《ひとみ》、薄い|唇《くちびる》、|豪《ごう》|華《か》な|黄《おう》|金《ごん》の髪。  一流モデルも|嫉《しっ》|妬《と》のあまり発狂しかねない、|完《かん》|璧《ぺき》な|肢《し》|体《たい》だ。  |青藍色《せいらんしょく》のタキシードと、クリーム色のタイ。  夏のさなかに、それでも汗ひとつかかないのは、式神だから当たり前か。 「当然、顔だ。美しい式神だけが生き残れるのだ。もっとも、俺以外の式神は失敗作だがな」  桜良は、腰がぬけそうな流し目を勝利にむける。 「俺に|惚《ほ》れるなよ……にいさん。頼むぜ」  勝利は、頭を|抱《かか》えた。 「わいは……|嫌《いや》や。こないな式神と一緒に戦うんは……嫌やぁ」  靖夫も、|潤《うる》んだ瞳で、うんうんとうなずいてみせる。 「靖夫君、勝利君」  |麗《れい》|子《こ》が、|哀《あわ》れむような瞳で言う。 「これも運命よ。|潔《いさぎよ》く、智の踏み台になってちょうだい。あなたたちにお願いしておくわ。万が一、死ぬことがあっても、CDラジカセだけは守ってね。あなたたちの|浄霊《じょうれい》は、智が有料で引き受けるから、安心して、心おきなく死んでちょうだい」 「麗子さん、ちょっとそれは、言いすぎじゃないですか」  智が苦笑する。 「オレ、友達の浄霊くらい、無料で引き受けますよ」 「やめてんか、鷹塔センセ。シャレにもならんわ」 「やめてください、智さん。俺、アニキみたいな男になるまでは、死んでも死にきれないですぅ」  じたばたする靖夫。  左門が、|慈《いつく》しむような|瞳《ひとみ》で、それを見守っている。  智は、靖夫と|勝《かつ》|利《とし》を見、くすんと笑った。  |綺《き》|麗《れい》な|笑《え》|顔《がお》。 「|嘘《うそ》ですよ。……死なないでくださいね、絶対に」 「お、おう! まかせてや、鷹塔センセ!」 「俺もがんばりますっ!」  智は、そっとうなずく。 「信じていますから……勝利君、靖夫君」  靖夫が、えへら……と笑う。 「智さんみたいな美人に言われたら、がんばるしかないっすよ」 「ヤス、あぶないで、そのセリフ」  勝利が、ぼそりと|呟《つぶや》いた。      *    *  青空に、真夏の太陽が輝いていた。  午後二時半を少しまわったところだ。  |社《やしろ》の|杜《もり》の緑から、|蝉《せみ》|時雨《し ぐ れ》が降ってくる。  だが、|舞《まい》|殿《どの》の周囲につめかけた数百の人々のあいだからは、|咳《しわぶき》ひとつ聞こえない。  張りつめた空気のなか。 〈|闇《やみ》|舞《まい》〉が始まった。  百五十メートル続く|参《さん》|道《どう》正面の、|朱《しゅ》|塗《ぬ》り|極《ごく》|彩《さい》|色《しき》の建物——舞殿である。  |天井《てんじょう》が、|四《よ》|隅《すみ》の柱でささえられたきりで、壁のない吹きさらしの能舞台だ。  文治二年(一一八六年)四月八日。  この日、|源義経《みなもとのよしつね》の|愛妾《あいしょう》・|静御前《しずかごぜん》が、|頼《より》|朝《とも》の|命《めい》に従って、|神《しん》|前《ぜん》で舞ったという。  当時、すでに義経は、兄頼朝に|都《みやこ》を追われていた。  頼朝は、義経の|行《ゆく》|方《え》を問いただすため、静を|捕《と》らえた。  が、静は何も答えない。  頼朝は、|業《ごう》を煮やして、「|白拍子《しらびょうし》なら、|我《わ》が前で舞え」と命じた。  |静《しずか》は、|屈辱《くつじょく》に耐え、|頼《より》|朝《とも》の前で舞った。  舞いながら「しずやしず しずのおだまき 繰り返し 昔を今になすよしもがな」と、|義《よし》|経《つね》を|慕《した》う歌を歌った。  居並ぶ者たちは、静の勇気と|哀《あい》|切《せつ》に深く感動した。  ところが、一人、頼朝だけは、|激《げき》|怒《ど》した。静の無礼を許そうとしなかった。  この時、頼朝の妻・|政《まさ》|子《こ》が、静をかばった。  あなたが逆境にいた頃の私は、今の静と同じでした。夫を|恋《こ》い|慕《した》わない女がありましょうか……と。  そのため、静は、逆に|褒《ほう》|美《び》を|賜《たまわ》り、死をまぬかれた。  その故事をしのんで、|鶴岡八幡宮《つるがおかはちまんぐう》では、毎年、四月の第二日曜日に、静の舞が|奉《ほう》|納《のう》される。  ここ|舞《まい》|殿《どの》は、その奉納舞の行われる場所だ。  虎次郎は、|白装束《しろしょうぞく》に身をかため、|畳《たた》んだ〈|闇扇《やみおうぎ》〉を持っていた。  通常の能とは違って、|直《ひた》|面《めん》である。  白い|狩《かり》|衣《ぎぬ》と|白袴《しろばかま》。  狩衣には、やはり白で、無数の|蝶《ちょう》が|刺繍《ししゅう》されている。  何もかもが白いなか、左目の|眼《がん》|帯《たい》だけが、闇を|凝縮《ぎょうしゅく》させたように黒い。  舞殿の正面には、|来《らい》|賓《ひん》|席《せき》がある。  といっても、折り畳み式の|椅《い》|子《す》を並べて、周囲を紅白の綱で囲っただけだ。  来賓席の最前列には、緋奈子がいた。  緋色の着物姿だ。  |漆《しっ》|黒《こく》の髪に|縁《ふち》どられた冷ややかな顔。  口もとに、|三《み》|日《か》|月《づき》のような薄笑いを浮かべていた。  緋奈子から四列ほど後ろに、|紋《もん》|付《つ》き袴の老人が座っている。  黒部組組長、黒部銀次だ。  黒部の周囲には、ダークスーツの男たちが、数名、控えていた。 〈|揚《あげ》|羽《は》〉の|呪《じゅ》|殺《さつ》|者《しゃ》たちも、すでに、見物人のなかに|紛《まぎ》れこんでいるだろう。  智は、舞殿の近くの|若《わか》|宮《みや》で、待機している。  祖母・夏子も一緒だ。  靖夫、左門、|勝《かつ》|利《とし》、|麗《れい》|子《こ》は、すでに、舞殿の周囲に移動していた。  |式《しき》|神《がみ》たちも一緒だ。  |鮮《あざ》やかな夏の光のなか、ふいに、虎次郎が顔をあげた。  同時に、|鼓《つづみ》の音が|湧《わ》きあがった。  規則的な響きが、|蒼穹《そうきゅう》に吸いこまれていく。 〈|汚《けが》れ|人《びと》〉は、流れるような動作で、身を起こす。  ざわ……と見物客がざわめいた。  |白装束《しろしょうぞく》の老人は、ゆっくりと舞いはじめた。  高まる緊張。  |地《ち》|霊《れい》|気《き》の|闇《やみ》が、ずんと濃くなった。  バタバタバタッ……!  バサバサバサッ……!  闇の|気《け》|配《はい》に|怯《おび》えたのか、数十羽の|鳩《はと》が、いっせいに飛びたった。  |舞《まい》|殿《どの》全体が、薄く発光しはじめた。  舞殿を包む|結《けっ》|界《かい》が完成する。  そして、それが、合図になった。     第五章 |鎌倉炎上《かまくらえんじょう》  ゴゴゴゴゴーッ……!  突然、鎌倉全体が、激しく揺れた。  震度六の|烈《れっ》|震《しん》。  |鶴岡八幡宮《つるがおかはちまんぐう》の屋根|瓦《がわら》が、バラバラと|滑《すべ》り落ちてくる。  立っていられず、うずくまる人々。  |怒《ど》|号《ごう》と悲鳴があがった。      *    *  |相模《さ が み》|湾《わん》|沖《おき》に、無数の木の船が現れた。  現代の船ではない。  船上に、|鎧兜《よろいかぶと》の|武《む》|者《しゃ》たちの姿がある。  |鎧兜《よろいかぶと》のあちこちに、折れた矢が突き立っている。  それぞれ、ぼろぼろになった赤い旗を立てていた。  |平《へい》|家《け》の|死霊《しりょう》たちの船団だ。  |源《げん》|氏《じ》の本拠地、|鎌《かま》|倉《くら》の|闇《やみ》に|惹《ひ》かれて、|遥《はる》か|壇《だん》ノ|浦《うら》から旅してきたのだ。  |武《む》|者《しゃ》たちの船団の中央に、|緋袴《ひばかま》の|女房《にょうぼう》たちの船があった。  幼い|安《あん》|徳《とく》|天《てん》|皇《のう》の|怨霊《おんりょう》も、そのなかにまじっているのだろうか。  ——おお……源氏の|都《みやこ》が揺れておる。  ——滅べ……滅んでしまえ……。  |高《たか》|潮《しお》とともに、死霊の船団は、|由《ゆ》|比《い》|ヶ《が》|浜《はま》にむかって進んでいく。  鎌倉に、上陸しようというのだ。      *    *  |鶴岡八幡宮《つるがおかはちまんぐう》の真北にあたる|建長寺《けんちょうじ》では——。  |轟《ごう》|音《おん》をあげて、|伽《が》|藍《らん》が、地の底に|崩《くず》れ落ちていった。  地震でできた|亀《き》|裂《れつ》が、鎌倉五山第一位の寺を|呑《の》みこんでいく。  その昔、この周辺は、|地《じ》|獄《ごく》|谷《だに》と呼ばれた。  罪人の|処刑場《しょけいじょう》があったためだ。  そのため、建長寺の|本《ほん》|尊《ぞん》は、地獄に落ちた|衆生《しゅじょう》を救う|地《じ》|蔵《ぞう》|菩《ぼ》|薩《さつ》なのである。  地獄谷に眠る無数の怨霊の|鎮《ちん》|魂《こん》と、|封《ふう》じこめの寺。  だが、今、その建長寺は完全に消滅した。  鎮魂と封じこめが、|解《と》けた。  亀裂のなかから、怨霊どもが、|蛆《うじ》のように|這《は》い出てきた。  鎌倉の異様な闇の力によって、実体化する。  怨霊どもは、|我《われ》がちに逃げまどう|僧《そう》|侶《りょ》たちに襲いかかり、|無《む》|惨《ざん》に引き|裂《さ》く。  飛び散る|血《ち》|飛沫《し ぶ き》。  骨を|噛《か》み|砕《くだ》くバリバリという音。  たちまち、地獄谷は、真の地獄と化した。  やがて、血みどろの怨霊の群れは、|嵐《あらし》のように移動しはじめた。  南の——鶴岡八幡宮へむかって。      *    * 「お|祖父《じ い》さまっ!」  |智《さとる》が、|若《わか》|宮《みや》を飛びだした。  |恐慌《きょうこう》状態の人込みを、必死にかきわけ、|舞《まい》|殿《どの》に近づこうとする。 「お祖父さまぁーっ!!」  |虎《こ》|次《じ》|郎《ろう》は、〈|闇扇《やみおうぎ》〉をかざしたまま、ちらりと|孫《まご》を見たようだった。  だが、何事もなかったように、舞を続ける。  |白装束《しろしょうぞく》が、夏の|陽《ひ》|射《ざ》しのなか、ゆっくりと動く。  舞殿の|結《けっ》|界《かい》を一度張ってしまったら、闇を招きよせるまで、解除はできない。  途中でやめれば、本当に闇が暴走しはじめる。  そうなったら、もう誰にも止められない。  虎次郎は、舞殿を離れられないのだ。  無防備の〈|汚《けが》れ|人《びと》〉。 「今だ。やれ」  |黒《くろ》|部《べ》が、〈|揚《あげ》|羽《は》〉の|頭《かしら》・|熊《くま》|飼《がい》に命じる。  すでに、黒部は、混乱の|渦《うず》から離れていた。 「さ、オヤジ、こちらへ」 「安全な場所へ」  老人の周囲を、組員たちが取り巻いて、全身でガードしながら、奥の|本《ほん》|宮《ぐう》へ|誘《ゆう》|導《どう》していく。  熊飼の命令を受けて、十数人の|呪《じゅ》|殺《さつ》|者《しゃ》たちが、いっせいに|呪《じゅ》|符《ふ》を投げた。  呪符は、|禍《まが》|々《まが》しい赤い光を放って、舞殿にむかって飛ぶ。  乱れ飛ぶ赤い流星。  ぺたりと舞殿の|結《けっ》|界《かい》に|貼《は》りついた。 「ノウマク・サマンダ・バザラダン・センダマカロシャダ・ソハタヤ……!」 「オン・シュチリ・キャラハ・ウンケン・ソワカ!」  十数の声が、|真《しん》|言《ごん》を|詠唱《えいしょう》しはじめる。  バチバチバチバチッ!  結界の周囲に、|雷《いかずち》のような白い光が走りぬける。 「く……っ……!」  虎次郎は、よろめき、きっと頭をもたげた。 〈闇扇〉を強く握りなおし、再び舞を続ける。 「お祖父さまっ!」  智が、しゃにむに舞殿に駆けよろうとした時。  チリン……!  どこかで、鈴が鳴った。  この混乱のなかで、聞こえるはずのない小さな音。  ぶわっ……と、異様な|気《け》|配《はい》が|膨《ふく》れあがる。 「…………!」  智は、反射的に背後を振り返った。  |喚《わめ》きたて、|我《われ》がちに逃げまどう人々の頭上に——。  |時《とき》|田《た》がいた。  白衣の|裾《すそ》を|翻《ひるがえ》して、宙に浮いている。  息を|呑《の》むほどの冷たい|美《び》|貌《ぼう》。  エメラルドグリーンの|邪《じゃ》|眼《がん》が、確かに智を|捉《とら》えた。  すっ……と、時田の腕があがった。  その白い手に、鈴はない。  |心霊治療師《サイキック・ヒーラー》の指が指し示すのは——。  反対側を見た智の心臓が、ドクンと鳴った。 「|京介《きょうすけ》……!」  いつの|間《ま》に現れたのか、|舞《まい》|殿《どの》の屋根の上に、京介が立っていた。  黒いタキシード姿。  別人のように|虚《うつ》ろな|瞳《ひとみ》だ。  手に、金色の鈴を持っている。 〈|召魔《しょうま》の鈴〉だ。 「京介ーっ!」  智の叫びに、京介は、わずかに顔を下にむけた。  だが、智を見つけても、人形のような表情に変化はない。 (京介……? オレがわからない……?)  京介が、ゆっくりと金色の鈴を持ちあげた。  目の高さに|掲《かか》げて、振る。  リーン……リーン……!  リーン……!  澄んだ鈴音が、悲鳴や|怒《ど》|号《ごう》をかき消すように響きわたった時。  ド……ッ!  ドッ……ドッ……ドッ!  |鈍《にぶ》い音と一緒に、|市《し》|街《がい》|地《ち》のそこここから、太い|火柱《ひばしら》が立った。  |紅《ぐ》|蓮《れん》の|炎《ほのお》と、大量の煙が、巨大な|竜《りゅう》のように空に上っていく。  真夏の|陽《ひ》|射《ざ》しが、急に|翳《かげ》った。 「え……?」  智が振り|仰《あお》ぐと、西の空が、下のほうから薄暗くなってくるのが見えた。  暗雲のような|魑魅魍魎《ちみもうりょう》が、ここ|鶴岡八幡宮《つるがおかはちまんぐう》めざして飛んでくる。  リーン……リーン……!  魔を呼ぶ鈴の|音《ね》。 「京介、やめろ! ダメだーっ!」  智は、顔を仰向け、|絶叫《ぜっきょう》した。      *    *  |緋《ひ》|奈《な》|子《こ》は、わずかに|眉《まゆ》をひそめた。 (おかしい……)  京介が〈召魔の鈴〉を振ったのは、わかった。  鈴の音に呼ばれて、|妖《よう》|怪《かい》、|鬼《おに》、魑魅魍魎が、鶴岡八幡宮に押しよせてくる。  だが、時田|忠《ただ》|弘《ひろ》に渡した〈|召魂《しょうこん》の鈴〉が鳴らない。  鈴を振る時間は、充分あったはずだ。 (たっちゃん……まさか……!?)  緋奈子は、軽く片手を振った。  ブシュッ!  緋奈子に近づきすぎた|鬼《おに》が、内側から|破《は》|裂《れつ》する。  飛び散る|鮮《せん》|血《けつ》と内臓。  むっとするような|腐臭《ふしゅう》。  緋奈子の|唇《くちびる》に、冷ややかな|笑《え》みが浮かびあがった。 「そう……裏切ったわね、時田忠弘」  |魔《ま》の|盟《めい》|主《しゅ》の全身が、緋色に輝きはじめる。  すさまじい|霊《れい》|気《き》だ。  グジュッ……!  ビシャッ!  緋奈子の霊気に触れた者は、鬼も人間も、平等に|溶《と》け|崩《くず》れた。  無差別な|怒《いか》りの霊気。 (計画が狂ったわ……)  緋奈子は、素早く|頭《こうべ》をめぐらし、|舞《まい》|殿《どの》の〈|汚《けが》れ|人《びと》〉を見た。  |厳《きび》しい決意の色が、能面のような顔に表れた。 (もう……誰も頼りにならないわ。緋奈子一人でやるしかない……)      *    *  バチバチバチバチッ!  赤い光の|蛇《へび》が、舞殿を中心にのたうっていた。  虎次郎は、そのなかで、まだ〈|闇《やみ》|舞《まい》〉を続けている。  決死の姿だ。  薄暗くなってきた空。 〈|揚《あげ》|羽《は》〉の術者たちが、舞殿の|結《けっ》|界《かい》を崩そうとしている。 「|四《し》|識《しき》|神《じん》!」  智が、|鋭《するど》く呼ばわる。  その声に|応《こた》えて、四体の|式《しき》|神《がみ》たちが、智の横に瞬間移動してくる。 「|紅葉《も み じ》、|吹雪《ふ ぶ き》、お|祖父《じ い》さまを守れ!」 「|御《ぎょ》|意《い》!」  吹雪がドスのきいた声で|怒《ど》|鳴《な》る。  |丸《まる》|太《た》のような両腕を、パコーン! と筋肉質の体に|叩《たた》きつけ、気合いを入れた。 「先に行くぞ、|秋《あき》|葉《ば》!」  紅葉の通称を叫んで、|吹雪《ふ ぶ き》は、宙に飛びあがった。  |浴衣《ゆ か た》がひらひらと風に舞い、見たくもない|太《ふと》|股《もも》がむきだしになる。 「がってん承知の助よ!」  紅葉も、ニヤリとする。 「一番、紅葉、|魔《ま》|斬《ざん》|爪《そう》、いきまーすっ!」  ジャッと音をたてて、紅葉の両手の|爪《つめ》が、一メートルも飛びだす。  |半《はん》|月《げつ》|刀《とう》のようにそりかえった爪は、|鈍《にぶ》い銀色に輝いている。 「おらおらおらぁ! どかないとぶった|斬《ぎ》るよーん!」  紅葉は、軽々と人々の頭上を飛びこえ、|舞《まい》|殿《どの》に降り立つ。 〈|汚《けが》れ|人《びと》〉は、|式《しき》|神《がみ》をちらと見、微笑したようだった。 〈|闇扇《やみおうぎ》〉が、開いた。  |漆《しっ》|黒《こく》の地に、金の|日《にち》|輪《りん》が|描《えが》かれている。  色違いの日の丸のような感じだ。  さす手、かざす手。  虎次郎の舞が、速くなる。  あくまで、〈闇舞〉を続けようというのだ。 〈|揚《あげ》|羽《は》〉の|呪《じゅ》|殺《さつ》|者《しゃ》たちが、|邪《じゃ》|魔《ま》な式神に攻撃をしはじめた。 「ちぃ! 式神|風《ふ》|情《ぜい》がぁ!」 「やっちまえ!」  乱れ飛ぶ|呪《じゅ》|符《ふ》。  流星のように、赤い光が、舞殿の周囲で|交《こう》|錯《さく》する。  リーン……リーン……!  リーン……!  京介の手のなかで、〈|召魔《しょうま》の鈴〉は、|妖《よう》|怪《かい》と|鬼《おに》を呼び続ける。 「やめろーっ! 京介ぇーっ!」  智は、|唇《くちびる》を|噛《か》んだ。 (どうして……誰が京介をこんなふうに……!?)  |悔《くや》しくて、|切《せつ》なかった。  京介に、声が届かない。 「|無《む》|駄《だ》よ、智ちゃん」  ふいに、緋奈子の声が、聞こえた。  |嘲《あざけ》るような声。  智のすぐ後ろだ。 「緋奈子!?」  ギクリとして振り返った智の目の前に、緋奈子はいた。  |緋《ひ》|色《いろ》の着物を着て、|妖《よう》|艶《えん》に|微《ほほ》|笑《え》んでいる。 「|鳴《なる》|海《み》京介には、あなたの声なんか聞こえない。あなたのことなんか、わからない。ほら、あの鈴が、|鎌《かま》|倉《くら》じゅうの|魔《ま》を呼びよせるわ。……もう終わりにしましょう、智ちゃん」 「京介に……何をした!? 緋奈子!」 「|洗《せん》|脳《のう》したのよ。緋奈子に絶対服従するように」  緋奈子は、ひどく楽しそうな表情でささやく。 「なんなら命令してみせましょうか、智ちゃん。鳴海京介に、あの|舞《まい》|殿《どの》から飛び降りるように。うまくいけば、首の骨を折って即死するわねえ。それとも、あなたと戦わせてみる? |天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》を使って、あなたを殺せと言ってみる? 智ちゃんは、鳴海京介には抵抗できないわね。絶対に、鳴海京介は殺せないわよね」  |陶《とう》|然《ぜん》とした|魔性《ましょう》の微笑。 「ああ……|百鬼夜行《ひゃっきやこう》のような光景ね。すごい数の|鬼《おに》と|妖《よう》|怪《かい》だわ。|綺《き》|麗《れい》……」  緋奈子は、うっとりと|呟《つぶや》く。  鎌倉の空は、夕暮れのように薄暗くなっていた。  |市《し》|街《がい》|地《ち》から立ち上る|真《しん》|紅《く》の|火柱《ひばしら》。  深い|陰《かげ》のなか、|幾《いく》|千《せん》もの鬼が|蠢《うごめ》き、|哀《あわ》れな|犠《ぎ》|牲《せい》|者《しゃ》の血をすすっている。  まるで、|墨《すみ》と|朱《しゅ》で|描《えが》かれた|地《じ》|獄《ごく》|絵《え》だ。 「智ちゃん、覚えているかしら。昔、これと同じように魔の|集《つど》う夜があって、緋奈子はあなたを守って一晩ずっと起きていたの」 「…………」 「たった十年くらい前のことなのにね……こんなに遠くなってしまったのね。智ちゃんが、ずっとずっと子供のままならよかった。小さくて、緋奈子に頼って、いつも緋奈子の後を追いかけてきて……。永遠に、あのままならよかったわね」  |境《けい》|内《だい》の人間の数は、だいぶ減ってきた。  人間の数より、鬼や妖怪の数のほうが多いのだ。  いつしか、空中から、時田の姿が消えている。  |勝《かつ》|利《とし》と|靖《やす》|夫《お》が、CDラジカセを|抱《かか》えて立ち、その二人を、|麗《れい》|子《こ》と|左《さ》|門《もん》が守っている。  緋色の|犬《いぬ》|神《がみ》が、素早く、麗子に襲いかかる鬼を|噛《か》み|裂《さ》いた。 〈|揚《あげ》|羽《は》〉の|呪《じゅ》|殺《さつ》|者《しゃ》たちは、|式《しき》|神《がみ》たちに倒されて、全滅した。  |死《し》|屍《し》|累《るい》|々《るい》。  すさまじい光景だった。 「あなたは……普通じゃない。どこかおかしいよ」  智は、緋奈子の横顔を見つめて、|呟《つぶや》いた。 「あなたが、この|街《まち》をこんなふうにしたんだ……」 「そうかもしれないわ」 「オレには……あなたを好きだった|記《き》|憶《おく》なんかない。でも、あなたを嫌う理由はたくさんある……」 「そう……じゃ、もっと嫌いになってごらんなさいよ」  緋奈子は、智のきつい|瞳《ひとみ》を真正面から受けとめた。 「驚いた、智ちゃん? 緋奈子は、智ちゃんに嫌いって言われても、平気なのよ。……だって、智ちゃんの嫌いは、好きと同じだもの。智ちゃんは、本当に嫌いな人は無視するのよ。……知らなかった?」 「オレは……本当に、あなたが嫌いなんだ」 「だとしたら、光栄だわ。|鷹《たか》|塔《とう》智が本気で|憎《にく》む人間なんて、この世で緋奈子一人だけだもの。世界じゅうで、緋奈子だけ。それって、特別ってことじゃない」  緋奈子は、|不《ふ》|思《し》|議《ぎ》に安らかな表情で、|闇《やみ》と|炎《ほのお》に包まれた街を見つめた。  どこから、そんな自信が|湧《わ》いてくるのか——。 「嫌いは、好きより強いのよ、智ちゃん。千年、誰かを愛することなんかできない。でも、千年、誰かを憎み続けることはできるのよ」  緋奈子の瞳は、異様に澄みきっている。  |迷《まよ》いのない|狂信者《きょうしんしゃ》の|眼《まな》|差《ざ》し。  智は、思わず|戦《せん》|慄《りつ》した。 「あなたは……誰なんだ。いったい何者なんだ」 「|魔《ま》の|盟《めい》|主《しゅ》よ」  緋奈子は、優しい声でささやく。 「智ちゃんの敵よ。そして、智ちゃんを愛してるわ、永遠に」 「|嘘《うそ》だ……!」 「嘘じゃないわ。緋奈子は嘘が嫌いだもの。本当のことしか言わないわ」  二人は、互いの瞳を見つめあった。  |舞《まい》|殿《どの》では、〈|汚《けが》れ|人《びと》〉が、ただ一人、|超然《ちょうぜん》と舞を続けていた。  いつの|間《ま》にか、|夏《なつ》|子《こ》が、舞殿の真下で、虎次郎を見あげている。  黒の|留《とめ》|袖《そで》姿だ。  そこだけ、|阿鼻叫喚《あびきょうかん》の周囲とは、まったく異なった空間があった。      *    *  智と緋奈子が|対《たい》|峙《じ》しているのを、時田は無言で|眺《なが》めていた。  |舞《まい》|殿《どの》に近い、社務所の一階だ。  手のなかには、銀色の鈴——〈|召魂《しょうこん》の鈴〉がある。  これを振れば、|鎌《かま》|倉《くら》じゅうの|怨霊《おんりょう》が集まってくる。  緋奈子が、|魔《ま》の力で怨霊どもを|苛《さいな》めば、その苦痛は、そのまま智のなかに流れこむ。  智は、動けなくなるだろう。  おそらく、数千、数万の怨霊の苦痛を受け入れれば、発狂する。  最悪の場合、激痛のあまり、心臓が止まるかもしれない。  |心霊治療師《サイキック・ヒーラー》は、薄く笑った。 「〈召魂の鈴〉か……」  ゆっくりと|銀《ぎん》|鈴《れい》を、目の高さまで持ちあげる。  銀ブチ|眼《め》|鏡《がね》は、していない。  エメラルドグリーンの|邪《じゃ》|眼《がん》が、智の背にむけられる。  智は、京介を|洗《せん》|脳《のう》され、緋奈子の前で身動きがとれず、苦しそうだ。 「さて、どうしたものか……。鎌倉じゅうの怨霊、緋奈子に流しこんでやろうか」  |呟《つぶや》く時田の背後で、異質な|気《け》|配《はい》が動いた。 「|虚《きょ》|言《げん》の|君《きみ》、どうなさいます」  |優《ゆう》|雅《が》な女の声が、やわらかく尋ねる。  |宝塚《たからづか》のおねえさまふうの美女だ。  長身で、スレンダーな体。  身のこなしに|華《はな》がある。  肩まであるふわふわの髪は、|炎《ほのお》のような見事な赤毛だ。  自分の髪の色を誇るように、体を包む|甲冑《かっちゅう》の色は、|深《しん》|紅《く》と金。  手には、実用一点張りの白い|革《かわ》|鞭《むち》を持っていた。  名を|北《ほく》|斗《と》といい、緋奈子の|式《しき》|神《がみ》——|羅《ら》|刹《せつ》|四《し》|天《てん》|王《のう》の一人だ。  彼女は、もとは人間の術者だった。  緋奈子に戦いを|挑《いど》んで負け、その|妖力《ようりょく》によって、式神に変えられたのだ。 「鷹塔智を選ばれるか、|我《わ》が当面の|主《あるじ》……時田緋奈子を選ばれるか……ご決断の時ですわね」 「両方なんとかしたいものだが」 「いつまでも、続きませんわよ。おボケな心霊治療師の仮面をかぶり続けるのは、もうそろそろ限界では?」 「|手《て》|厳《きび》しいな、北斗は」  時田は、苦笑した。  銀鈴を持つ手を下げ、鈴本体を手のひらに握りこむ。 「人間だった時から、そうなのかね」  北斗は、煙るような|紫《むらさき》の|瞳《ひとみ》で|微《ほほ》|笑《え》む。 「いずれは、おわかりでしてよ、|虚《きょ》|言《げん》の|君《きみ》。あたくしを、時田緋奈子から自由の身に……人間に戻してくだされば」 「約束は、忘れていないよ。安心するがいい」 「信頼しておりますわ」  北斗は、|媚《こ》びるような|眼《まな》|差《ざ》しを、|美《び》|貌《ぼう》の|心霊治療師《サイキック・ヒーラー》にむける。 「|魔《ま》|王《おう》……アフリマン」 「虚言の王を信じるのか、北斗」 「時には、真実を語られることもございましょう」 「そう……時にはな」  時田は、もう一度、|舞《まい》|殿《どの》の近くの智に視線をむけた。 「あれを、この国の外に連れていきたいものだ……。智には、こんな国はふさわしくない。わけのわからぬ|妖《よう》|怪《かい》、|鬼《おに》……人の|怨《おん》|念《ねん》が底無し沼のように|渦《うず》|巻《ま》いている。何もかもが無茶苦茶で、法則というものがない。わたしは、この国が嫌いだ。わたしの支配を|拒《きょ》|絶《ぜつ》する国……魔王の力さえねじ曲げる国……この国の|地《ち》|霊《れい》|気《き》は狂っている。こんな国が、地上にあっていいはずがない」 「時田一門の血さえ、あなたさまを、この国に結びつけることはできませんでしたわね。それでこそ、|唯《ゆい》|一《いつ》絶対の魔王。|秋《あき》|津《つ》|島《しま》以外の、すべての国を支配するおかた」 「|嫌《いや》|味《み》かね、北斗。その秋津島以外というのは」 「あら、とんでもない。あたくしは、真実を申し上げただけでございますわぁ」  北斗は、くすくすと笑う。 「さあ、時田忠弘さま、ご決断を」 「時々、この世の中の女は、みんな殺してやりたくなるよ」  時田は、ため息まじりに|呟《つぶや》いた。  手のひらを開き、指先で〈|召魂《しょうこん》の鈴〉を持ちあげた。  エメラルドグリーンの|邪《じゃ》|眼《がん》が、|妖《あや》しく光った。  次の瞬間、鈴は|粉《こな》|々《ごな》になって消滅した。 「では、北斗。|我《われ》|々《われ》は、高みの見物とシャレこもうではないか」      *    *  智は、顔をあげた。  |本《ほん》|宮《ぐう》のほうから、一人の老人が走りだしてくる。  黒の|紋《もん》|付《つ》き|袴《はかま》姿だ。  |革《かわ》のような|肌《はだ》、落ち|窪《くぼ》んだ目、少し曲がったような|唇《くちびる》。  老人は、|魑魅魍魎《ちみもうりょう》の|跋《ばっ》|扈《こ》する階段を駆けおり、|舞《まい》|殿《どの》にむかっていく。  |黒《くろ》|部《べ》|組《ぐみ》組長、黒部|銀《ぎん》|次《じ》だ。  黒部銀次の後ろには、数名のダークスーツの男たちが従う。  手に手に、|日《に》|本《ほん》|刀《とう》や|拳銃《けんじゅう》を持っていた。 「続けー! 続けぇーっ!〈|汚《けが》れ|人《びと》〉の心臓を手に入れた者には、わしの|跡《あと》|目《め》を継がせるぞ! 急げ!」 〈|揚《あげ》|羽《は》〉の|呪《じゅ》|殺《さつ》|者《しゃ》たちが失敗したので、|自《みずか》ら出てきたらしい。  そして、黒部たちを|阻《そ》|止《し》しようとする左門の姿。  舞殿では、虎次郎が、静かな動きで舞っていた。  薄暗い|社《やしろ》の緑を背景に、|鮮《あざ》やかな|白装束《しろしょうぞく》。  ゆるやかに|扇《おうぎ》をかざす。 〈|闇扇《やみおうぎ》〉の中央の、|黄《おう》|金《ごん》の|日《にち》|輪《りん》。  人が|汚《けが》した大地を、たった一人で|浄化《じょうか》していく放浪の術者。 〈汚れ人〉の名は、一つには、大地の闇……汚れをその身に|担《にな》うことからつけられた。  だが、もう一つは——。  大地を|汚《お》|染《せん》する、すべての人間に成り代わり、神々の前に立つ……という意味をこめてつけられた。  汚れた人間の代表だから、〈汚れ人〉なのだ。  すべての人間の代理として——。  神々に|謝《しゃ》|罪《ざい》するために。 (〈闇舞〉を中断させてなるか……!)  智は、|唇《くちびる》を|噛《か》んだ。 (なんとしても、お|祖父《じ い》さまを守らなきゃ……)  だが、目の前に緋奈子がいて、身動きがとれない。  左門が、|呪《じゅ》|符《ふ》を構えるのが見えた。 「|禁《きん》!」  |赤紫《あかむらさき》の光を放って、呪符は、ヤクザどもに飛ぶ。  階段の途中で、小さな|閃《せん》|光《こう》が|弾《はじ》ける。  ヤクザどもの動きが、止まった。  呪符に|呪《じゅ》|縛《ばく》され、石になったように動けずにいる。  だが、先頭にいた黒部は、呪符の有効範囲から|逃《のが》れた。  まっすぐ、舞殿にむかって走り続ける。  |紋《もん》|付《つ》き|袴《はかま》の|懐《ふところ》から、|白《しら》|木《き》の|鞘《さや》のドスをぬきだした。 〈|汚《けが》れ|人《びと》〉の周囲を守る|式《しき》|神《がみ》たちも、|鬼《おに》や|妖《よう》|怪《かい》の相手で手いっぱいだ。  夏子が、黒部の姿に気づいて、ハッとしたようだ。  黒部は、|悪《あっ》|鬼《き》の|形相《ぎょうそう》で笑った。 「どけぇっ! |婆《ばば》ぁ!」 「あぶないっ!」  左門が、素早く|印《いん》を結んだ。 「オン・ソンバ・ニソンバ・ウン・バザラ・ウンパッタ!」  左門の大きな両手が、緑に光りはじめる。  ビュウ!  緑の光が、指先から、一メートル半ほど伸びた。  両手の光が、一瞬のうちに一本によりあわさる。  次の瞬間、緑の光は、|長《なが》|柄《え》の|斧《おの》に変わった。  左門は、斧を握って、走りだした。 「やめてください! オヤジーっ! こんなのは違う! 俺の知ってるオヤジは、こんなことしねえはずだ! 目を覚ましてください、オヤジーッ!」  左門が、|絶叫《ぜっきょう》した。  |精《せい》|悍《かん》な顔が、苦痛に|歪《ゆが》んでいる。  黒部は、夏子に|斬《き》りつける。 「お|祖母《ば あ》さまーっ!!」  智は、思わず声をあげた。  夏子は、細い腕をあげて、顔をかばった。  斬り|裂《さ》かれる着物の|袖《そで》。  黒部は、むんずと夏子の肩をつかみ、突き飛ばした。  本気で老婆を殺すつもりはなかったようだ。 「|邪《じゃ》|魔《ま》するんじゃねえ、婆ぁ」  夏子は、よろよろと地面に倒れこんだ。 「あ……!」  そのまま、黒部は、|舞《まい》|殿《どの》に駆けあがろうとする。  黒部の|萎《しな》びた手のなかで、ドスが|鈍《にぶ》く光った。  舞殿では、虎次郎が、黒部をはったと|睨《にら》み|据《す》えている。  だが、〈|闇《やみ》|舞《まい》〉はやめない。 「オヤジーっ! ダメだぁーっ!」 「アニキ……!?」  少し離れたところで、靖夫が、素早く、左門を振り返った。  |舞《まい》|殿《どの》の階段に足をかけた黒部。  |斧《おの》を振りかざして追いかける左門。必死の|形相《ぎょうそう》だ。  靖夫が、走りだした。  だが、CDラジカセを二つ持っているため、動きが遅くなる。  ドン!  靖夫は、|鬼《おに》に突き飛ばされた。 「きゃあっ!」  一匹の牛鬼が、靖夫の手からCDラジカセを奪いとって、踏み壊した。  バリバリバリバリッ! 「ああっ! アニキぃ! CDラジカセがぁーっ!」  靖夫が悲鳴をあげる。  智は、それを見ていることしかできなかった。  音楽がやむと、コンマ数秒遅れて、|吹雪《ふ ぶ き》が消えた。  |式《しき》|神《がみ》が一体欠けると、ずいぶん戦力に響いた。 「吹雪が消えた!」  少し離れた場所から、|勝《かつ》|利《とし》と|麗《れい》|子《こ》が、ギクリとしたようにこちらを見た。  牛鬼は、紅葉のCDラジカセにも、足をのせようとしている。 「うわあああーっ! ダメだぁーっ!」  靖夫が再び悲鳴をあげる。 「やめろぉーっ!」 「ヤス!」  左門が、階段の途中で、振り返った。  |逞《たくま》しい腕で斧を持ちなおし、ぶんと牛鬼に投げつけた。  広い背中が、しなやかにしなる。  ドシュッ!  斧が、牛鬼の右腕を|斬《き》り落とす。  見事な一撃だった。 「|大丈夫《だいじょうぶ》か、ヤスーっ!?」  靖夫に|怪《け》|我《が》はないようだった。紅葉のCDも無事だ。      *    * 「|北《ほく》|斗《と》、すまんが、旅行代理店に行ってくれるかね。チケットの予約を忘れた」  のんびりと、社務所に陣取って、|心霊治療師《サイキック・ヒーラー》が言う。  |革《かわ》のソファーに座っていた。  少し離れたところでは、智と緋奈子が|対《たい》|峙《じ》している。 「|鎌《かま》|倉《くら》の|街《まち》の機能は、停止していましてよ。〈|闇《やみ》|送《おく》り〉が終わるまで、街の外には出られませんし」  |式《しき》|神《がみ》は、ふわふわの赤毛を指先ですきながら、答える。  二人の前には、大理石のテーブルがある。  |北《ほく》|斗《と》が、近くの家具店から勝手に持ってきたものだ。  |文《もん》|句《く》をつけるはずの店主も、今は、|怨霊《おんりょう》に追われて逃げまどっているだろう。  テーブルの上には、二人分のティーセット。  どこから調達してきたのか、ウエッジウッドのティーカップだ。  |可《か》|愛《わい》いピーターラビットがプリントされている。 「……で、なんのチケットですの? 予約はできませんけれど、いちおう、お|訊《き》きしてさしあげますわ」 「モナコに行こうかと思ってね。……この戦いが片づいたら、智と一緒に」  時田忠弘は、紅茶の|湯《ゆ》|気《げ》を吸いこみながら、クスクス笑う。  北斗は、|優《ゆう》|雅《が》に肩をすくめた。 「無理じゃありませんこと? 智さまの|了解《りょうかい》は、とってらっしゃらないのでしょう? ふられるのがオチですわよ」 「そこまではっきり言わなくても……北斗」  心霊治療師は、|恨《うら》めしそうな目つきで、式神を|睨《にら》んだ。 「わたしと智は、ただならぬ仲なんだから」 「|片《かた》|想《おも》い……って、はっきりおっしゃったほうが、正直ですわよ」 「死ぬほど口が悪いのは、主人の緋奈子のせいかね。それとも、本来の性格がそうなのかね、北斗?」 「|嫌《いや》ですわ、忠弘さま。そんなにお|誉《ほ》めにならないで」 「誉めたつもりはないんだがね」  にこやかに談笑中の心霊治療師と式神の目の前では、血みどろの|惨《さん》|劇《げき》がくりひろげられていた。 「モナコより、コートダジュールのほうがいいかな。いや、それより、ケアンズのわたしの別荘に連れていくか……」  心霊治療師は、夢みるような|瞳《ひとみ》で|呟《つぶや》く。 「二人っきりで、世界一周の船旅というのもいいかもしれない。智の寝室は、毎夜、百万本の|薔《ば》|薇《ら》の花で|埋《う》めよう。夜空を見ながら、|極上《ごくじょう》のシャンパンで|乾《かん》|杯《ぱい》して、波の音をBGMに甘やかな愛をかわしあうんだ」 「発想が俗物ですわね」 「智は、わたしを愛してたんだよ。本当だ」 「でも、今は鳴海京介が好きですわよね」  |北《ほく》|斗《と》は、意地悪くささやき、ピーターラビットのティーカップを|掲《かか》げた。 「時田忠弘さまの|片《かた》|想《おも》いに|乾《かん》|杯《ぱい》」 「北斗ー……それはないだろ」  無数の|鬼《おに》や|妖《よう》|怪《かい》たちも、この社務所だけは、避けて通っていた。 「あそこ、楽しそう……」  戦いながら、紅葉が|呟《つぶや》く。  |魔《ま》|斬《ざん》|爪《そう》で、社務所を指差す。  |心霊治療師《サイキック・ヒーラー》が、ソファーに座って、北斗とお茶している。 「バカなことをおっしゃい。敵ですよ」  ピシャリと、|睡《すい》|蓮《れん》が言った。  智に|瓜《うり》|二《ふた》つのこの|式《しき》|神《がみ》は、ほかの三体の式神たちのお目付け役を自任しているところがある。 「堅いこと言わないでさあ、|蓮《はす》|川《かわ》の睡蓮ちゃん」 「だいたい、あなたは、いつも緊張感がたりませんよ」 「いーじゃん、いーじゃん! おいらはね、明るいのが|取《と》り|柄《え》なんだよぉ」 「あなたみたいに|軽《けい》|薄《はく》な式神が同僚だなんて……わたしは悲しい」  睡蓮は、深いため息をついた。      *    *  京介が、|舞《まい》|殿《どの》の屋根から降りてきた。  まだ、緋奈子に|洗《せん》|脳《のう》されたままだ。  |虚《うつ》ろな|瞳《ひとみ》が、智を見る。 (京介……!)  智は、ただつらかった。  できるものなら、駆けよって、抱きしめたい。  胸ぐらをつかまえて、問いつめたい。  何があったのか。 「京介……」 「智ちゃん、もう終わりにしましょう」  緋奈子が、智の前で両手を広げた。  京介とのあいだに立ちはだかる。 「どいて……ください」  智は、一歩前に出た。 「どかないわ」 「じゃあ、あなたを殺す」 「智ちゃん……そんなに、この子が好き? 緋奈子よりも?」  緋奈子は、|妖《よう》|艶《えん》に|微《ほほ》|笑《え》んだ。 「かわいそうに、よりにもよって、こんな|化《ば》け|物《もの》を好きになるなんて。相手が人間でさえないなんて、異常だと思わない? 自分で、自分が恥ずかしくない? もう彼は、あなたを抱いてくれた? 優しくしてくれた? そんなに、気持ちよかった?」 「あなたには、関係ない」 「そう?」 「あなたと話すのは、時間の|無《む》|駄《だ》だね。……イライラする」 「そんなに戦いたい、智ちゃん? ずいぶん攻撃的ね。あなたの役目は、殺すことじゃなくて、|浄化《じょうか》することじゃなかったかしら? そんなに、鳴海京介が気になる? わかったわ」  緋奈子は、肩ごしに京介を振り返った。 「鳴海京介、|天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》は持ってるわね。智ちゃんと戦ってあげて。天之尾羽張は、使い方によっては、相手の|魂《たましい》を永遠の|地《じ》|獄《ごく》に|叩《たた》きこむこともできるわ。|輪廻転生《りんねてんしょう》もできない無限地獄よ。……さぞかし、苦しい場所でしょうね」  微笑む|三《み》|日《か》|月《づき》|形《がた》の|唇《くちびる》は、|鮮《せん》|血《けつ》の色をしている。  智は、ブルッと身震いした。 「京介に……天之尾羽張は使わせない!」 「|斬《き》りなさい、鳴海京介!」  智と緋奈子の声が、|交《こう》|錯《さく》する。  京介は、|虚《うつ》ろな|瞳《ひとみ》のまま、天之尾羽張の金属片を取りだした。 「ご命令のままに……緋奈子さま」  |弾《はじ》ける純白の光。  天之尾羽張が、|顕《けん》|現《げん》した。  一メートルほどの光の|剣《つるぎ》。  |柄《つか》の先端が、|猛《たけ》|々《だけ》しい|鷹《たか》の頭を|象《かたど》っている。  周囲の|鬼《おに》や|妖《よう》|怪《かい》たちが、天之尾羽張の光に|怯《おび》えたように、後ずさる。  京介は、智に斬りかかった。  |情《なさ》け|容《よう》|赦《しゃ》なく宙をきる、純白の光の|刃《やいば》。 「京介ーっ!」  智は、悲鳴をあげた。  京介を前にして、戦うことも、逃げることもできない。  全身が|硬直《こうちょく》して、動けなかった。 (|嫌《いや》だ……京介……!)  智は、目を閉じた。  ズシュッ!  |鮮《せん》|血《けつ》が、吹きあがった。     第六章 金目の|妖獣《ようじゅう》  ポタポタポタッ……!  鮮血が、したたった。 「|京介《きょうすけ》……!」 「く……っ……!」  京介は、よろめき、苦しげにうめいた。  鮮血が、京介の胸から流れだしている。  黒いタキシードの胸に、十文字の深い傷。  両手で京介に|斬《き》りつけたのは、|紅葉《も み じ》だ。  紅葉の手の先には、|半《はん》|月《げつ》|刀《とう》のような十本の|爪《つめ》——|魔《ま》|斬《ざん》|爪《そう》が、|鈍《にぶ》く光っていた。  魔斬爪の先端は、すべて京介の血に|濡《ぬ》れている。 「悪いけど、京介の|旦《だん》|那《な》。マスターを殺そうとするなら、おいらたちは、黙っちゃいないよ」  京介を見つめる紅葉の茶色の|瞳《ひとみ》は、別人のように|酷《こく》|薄《はく》だ。  |対《たい》|峙《じ》する三体の|式《しき》|神《がみ》と、傷ついた京介。  式神たちは、|智《さとる》の危機に、とっさに反応したのだ。  一瞬のうちに、智の前に移動してきた。 「|上主《じょうしゅ》・智に|天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》をむけて、生きて帰れると思うな、|鳴《なる》|海《み》京介」  紅葉の右横から、|桜良《さ く ら》が冷たく笑う。  金髪、水色の瞳の式神だ。|青藍色《せいらんしょく》のタキシード姿。  桜良は、二メートルほどの金属の|杖《つえ》——|雷鳴杖《らいめいじょう》を構えている。  杖の両端には、半球形の|水晶《すいしょう》が埋めこまれていた。  |雷《かみなり》を呼ぶ|降《ごう》|魔《ま》の杖。  そして、智と|瓜《うり》|二《ふた》つの式神、|睡《すい》|蓮《れん》。  ただ、違うのは、|漆《しっ》|黒《こく》の髪が背中まであることか。 「上主、お|怪《け》|我《が》は?」  睡蓮は、智の肩をつかんだ。  情報収集を|司《つかさど》る式神の、知的で冷静な|眼《まな》|差《ざ》し。  保護者然とした|笑《え》みが、睡蓮の|頬《ほお》に浮かんでいる。 「桜良、紅葉、ダメだ……! 京介を傷つけるな!」  智は、式神たちの背中にむかって叫んだ。  だが、|主《あるじ》の命令を、紅葉と桜良は見事に無視した。 「マスターがなんか言ってるよ、桜良」 「聞こえないなあ。気のせいじゃないか」  互いに顔を見あわせ、ニヤリとする二体の式神。  智は、|愕《がく》|然《ぜん》とした。 (こんなはず……ない!)  式神は、主に絶対服従するはずではなかったのか。 「どうして……!?」 「|我《われ》ら|四《し》|識《しき》|神《じん》の使命は、上主をお守りすること。上主の安全が、最優先にございます。お命を|脅《おびや》かすようなご命令には、従えません」  睡蓮が、|哀《あわ》れむような瞳で智を見た。 「こんなこともお忘れですか、上主」  睡蓮の指に力がこもる。  すさまじい腕力だ。 「どうか、この場を動かれませぬよう。すぐにすみます」 「京介を……どうするつもりだ」 「おわかりになりませんか、上主」  |酷《こく》|薄《はく》な睡蓮の|瞳《ひとみ》。 「上主を傷つける者は、殺します。たとえ、それが上主の大切なかたであったとしても」  智は、思わず息を|呑《の》んだ。 「京介を殺す……!? ダメだ! 許さない!」  睡蓮は、無言で首を横に振る。  智の命令には従えない、というふうに。 (京介……!)  |桜良《さ く ら》と紅葉が、ふわりと宙に舞いあがる。  京介の血の|臭《にお》いを|嗅《か》ぎつけたのか、|鬼《おに》の群れがよってきた。  京介は、ふらつく体で、|天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》を頭上に|掲《かか》げた。 「天之尾羽張、力を……!」  純白の光が、強く輝きだす。  ポタリ……ポタリ……。  あとからあとから、あふれ出る|鮮《せん》|血《けつ》。  すでに、京介の足もとには、真っ赤な血だまりができている。  だが、|緋《ひ》|奈《な》|子《こ》に支配された京介は、|怪《け》|我《が》などまったく気にもとめていない。 「ダメだ……京介! もうそれ以上、動かないで!」 (死んでしまう……!)  智は、必死に走りだそうとした。  だが、睡蓮が押さえつけているので、動けない。 「京介ぇーっ!」  |境《けい》|内《だい》の|隅《すみ》のほうで戦っていた|麗《れい》|子《こ》と|勝《かつ》|利《とし》が、驚いたようにこちらを見た。 「京介君!?」 「ナルミちゃん! |鷹《たか》|塔《とう》センセ!」  天之尾羽張の光は、しだいに強くなっていく。  緋奈子が、安全な場所からそれを|眺《なが》めている。  満足げな表情だ。 「|雷鳴杖《らいめいじょう》!」  桜良が、頭上に|杖《つえ》を持ちあげた。  真っ白な|稲《いな》|妻《ずま》が、暗い空を|引《ひ》き|裂《さ》く。  ほぼ同時に、|雷《かみなり》が|響《ひび》きわたった。  天之尾羽張の光と、|雷《らい》|光《こう》が|交《こう》|錯《さく》する。  雷は、桜良の杖に落ちた。  すさまじい|轟《ごう》|音《おん》。  ドドドドドドドッ!  桜良は、帯電して、青白くスパークする|雷鳴杖《らいめいじょう》を、京介にむける。 「死ね」  智は、|執《しつ》|拗《よう》にからみつく|睡《すい》|蓮《れん》の腕に、歯をたてた。  ギリギリと食いちぎろうとする。  だが、|式《しき》|神《がみ》は、なおもがっしりと智を|抱《かか》えこんで、放さない。  この力の強さは、やはり人間ではない。 (京介が死んでしまう……!)  ふいに、智の胸のなかで、何かが決壊した。 (|嫌《いや》だ……!)  暗い水のように、突きあげてくる激情。  京介ガ、イナインナラ、イキテテモ、ショウガナイ!  最初に浮かんできたのが、そんな明確な言葉だったのか、智にはもう思い出せない。  荒れ狂う感情が、理性を吹き飛ばした。 (京介……! 京介!)  ドッ……!  智の全身から、青い|霊《れい》|光《こう》が爆発した。  青い輝きは、|境《けい》|内《だい》を|隅《すみ》|々《ずみ》まで照らしだし、空を|鬼《おに》|火《び》のような色に変える。  緋奈子が、ギクリとしたように、智を見た。 「なんて力……!」  緋奈子は、とっさに胸の前で|印《いん》を結んだ。 「|金《こん》|剛《ごう》|壁《へき》!」  智の霊気に対して|結《けっ》|界《かい》を作る。  ボウッ……と緋色の霊光が、緋奈子を包んだ。  境内の一方では——。  |麗《れい》|子《こ》が、智の霊気に悲鳴をあげ、その場にへたりこんだ。 「い……やぁっ!」  両腕で自分の体を|抱《かか》えこみ、震えだす。  少し遅れて、|勝《かつ》|利《とし》が、CDラジカセを持ったままよろめき、|片《かた》|膝《ひざ》をついた。 「鷹塔センセ……あかん……!」  智の霊気を浴びたすべてのものが、影響を受けている。  |鬼《おに》も|妖《よう》|怪《かい》も|怨霊《おんりょう》も、混乱して、狂ったように空を飛びまわっていた。  |舞《まい》|殿《どの》では、|虎《こ》|次《じ》|郎《ろう》が、一瞬、〈|闇扇《やみおうぎ》〉を持つ手を止めた。  痛々しげな|眼《まな》|差《ざ》しを、|孫《まご》にむける。 「智……!」  智は、|睡《すい》|蓮《れん》の腕に|逆《さか》らい、京介にむかって手を差しのべた。 「京介を傷つける力なんか……いらないっ!!」  ドンッ!  |靖《やす》|夫《お》の足もとの、紅葉のCDラジカセが爆発した。  コンマ数秒遅れて、紅葉が消滅する。  ドンッ!  ドンッ!  さらに、勝利が持った桜良と睡蓮のCDラジカセが、爆発した。  桜良と睡蓮が、消える。 「京介……!」  智は、のろのろと歩きだした。  青い|霊《れい》|光《こう》が薄れていく。  智には、京介しか見えなかった。 「京介……」  血まみれで、|天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》を頭上に|掲《かか》げたままの京介は、じっと智を見つめていた。  |虚《うつ》ろな|瞳《ひとみ》の奥に、かすかに感情が揺れる。 「京介……オレだよ……京介……!」 (思い出して……)  たった八メートルくらいの距離なのに、京介は、ひどく遠かった。  よろめきながら、智は歩き続けた。  |地《ち》|霊《れい》|気《き》の|闇《やみ》も、世界も、緋奈子も、どうでもよかった。 (ほかのものは……何もいらない……)  舞殿の階段の上では、|左《さ》|門《もん》と|黒《くろ》|部《べ》が、音もなくもみあっていた。  |閃《ひらめ》く短刀。  靖夫が、悲鳴をあげていた。 「アニキーっ!」  遠い遠い、別の次元で起こっているような悲劇。  智は、まっすぐ京介だけを見つめた。  ようやく、手の届く位置まで来て、手を差しのべる。 「京介……思い出して……オレだよ」  京介の|瞳《ひとみ》が、苦しげに宙をさまよう。  いくつもの感情が、瞳のなかで揺らめいた。  物言いたげに、|唇《くちびる》が動いた。 「あ……」  大事なことを忘れたような、もどかしげな表情。  智は、うなずいてみせる。 「オレだよ……京介。もう|大丈夫《だいじょうぶ》だよ。京介……」  京介の手から、|天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》が落ちた。  ザクッ……!  地面に突き刺さる|降《ごう》|魔《ま》の|利《り》|剣《けん》。  次の瞬間、純白の光は消えた。  天之尾羽張は、もとの十五センチほどの金属片に戻る。  京介は、眠りから覚めたように、智を見た。 「智……」 「京介……」  智は、全身で京介にすがりついた。 「京介……!」  涙が、あふれそうになる。 (思い出してくれた……)  京介の手が、震えながら、智の頭を|抱《かか》えこむ。  |頬《ほお》に頬を押しあてた。 「智……」 「|洗《せん》|脳《のう》、|解《と》けたんだね……京介」 「智……もう……二度と会えないと思った……!」 「京介、オレも……」 「ごめん……天之尾羽張……約束破って……」  京介の体が、ゆらりと|傾《かし》いだ。  ポタポタポタッ……!  傷口からの出血が激しくなる。 「京介っ!」  智は、両腕で京介を抱きしめた。  倒れないように、全身で京介の体重をささえる。  白いコットンシャツが、京介の血で|深《しん》|紅《く》に|染《そ》まっていく。  急速に、京介の|霊《れい》|気《き》が弱まっていくのがわかる。 「京介ーっ!」 「|愁嘆場《しゅうたんば》ね、智ちゃん」  ふいに、優しい声が、聞こえた。  智は顔をあげ、京介の肩ごしに緋奈子を見た。 「緋奈子……」 「二人並べて殺してあげる」  |魔《ま》の|盟《めい》|主《しゅ》は、|妖《よう》|艶《えん》に|微《ほほ》|笑《え》んだ。 「かけまくも|畏《かしこ》き|火之迦具土大神《ほのかぐつちのおおかみ》、|豊《とよ》|秋《あき》|津《つ》|根《ね》の|大《おお》|八《や》|嶋《しま》に|生《あれ》|坐《ませ》る……」  |疵《きず》のない|綺《き》|麗《れい》な声が、|祭《さい》|文《もん》を|唱《とな》えはじめる。  智は、京介の背中を抱きしめ、じっと緋奈子を見つめた。  |不《ふ》|思《し》|議《ぎ》と、戦い続ける気持ちにはなれなかった。 (もう……いいかもしれない……。  京介と一緒に眠れるなら……) 「ダメだ……智……死ぬな……」  智の口には出さなかった|想《おも》いを読んだように、京介が|呟《つぶや》く。  苦しげな息をしながら。 「智……こんな終わり方……幸せじゃねえだろ……本当に幸せなわけじゃ……ねえよ……」 「京介……」 「俺は……|嫌《いや》だ……こんな終わり方は……許さねえ。二人で……もっと幸せになるんだよ……」  京介は少し上半身を起こし、智と視線をあわせた。  誰よりもひたむきで、|想《おも》いをこめた|瞳《ひとみ》。  決して絶望しない目だ。 「京介……」  智の|頬《ほお》に、涙が伝った。 「泣くな……バカ」  笑いを含んだかすかな声。 「京介……世界なんか……いらない……一緒に終わってしまおう……」 「ダメだ、智……俺たち、一緒に死ぬために出会ったわけじゃないだろ」  智は、京介の背中をギュッと抱きしめた。  全身で触れあうことで、想いが少しでも伝わるように。  命を分かちあうように。 「京介……京介……」  その時——|舞《まい》|殿《どの》が、爆発|炎上《えんじょう》した。  ドドドドドーン!      *    *  吹きあがる火炎。  飛び散る建材の破片。  バチバチ……!  バチバチ……!  連日の夏の|陽《ひ》|射《ざ》しに照らされて、|乾《かわ》ききっていた舞殿は、ひとたまりもなかった。  |紅《ぐ》|蓮《れん》の|炎《ほのお》が、真っ赤な|舌《した》となって天を|焦《こ》がす。  炎のなかから、真っ黒な|揚《あ》げ|羽蝶《はちょう》が、無数に飛びだした。  |地《ち》|霊《れい》|気《き》の|闇《やみ》が、変じたものだ。  黒い揚げ羽蝶は、後から後から舞いあがっていく。  オオーン……オオーン……オオーン……。  オオーン……。  地の底から|湧《わ》きあがるような、|不《ぶ》|気《き》|味《み》な声。  |妖《よう》|怪《かい》や|鬼《おに》どもさえ、|怯《おび》えたように動きを止めた。  |闇《やみ》は、黒い|揚《あ》げ|羽蝶《はちょう》の形で流れだし、|鎌《かま》|倉《くら》じゅうに広がっていく。  めらめらと燃え盛る|舞《まい》|殿《どの》。  |紅《ぐ》|蓮《れん》の|炎《ほのお》。 〈|汚《けが》れ|人《びと》〉も、どうなったのかわからない。      *    *  智と京介は、目と目を見かわした。 「お|祖父《じ い》さまが……!」 「じーさん……!」  同時に、緋奈子の姿がフッと消えた。  たった今、ここにいたことが|嘘《うそ》のようだ。 「え……?」 「消えやがった……!?」  次の瞬間、|魔《ま》の|盟《めい》|主《しゅ》は、舞殿の炎の前に出現した。 「〈汚れ人〉の心臓、燃やしてしまうわけにはいかない……!」  遠く離れて、聞こえるはずのない声が、智と京介の耳に届いた。  魔の盟主の|漆《しっ》|黒《こく》の髪が、おりからの風に|翻《ひるがえ》った。  |禍《まが》|々《まが》しい姿。 「緋奈子……!」 「瞬間移動しやがった……! 化け物……!」 「京介、お祖父さまはまだ生きてる。オレ……どうしたら……」  智の心は、傷ついた京介と、炎のなかの虎次郎とのあいだで揺れている。 (どっちを選んだらいい……?)  京介は、ゆっくりと智から離れた。 「先に行け。緋奈子が、じーさんを……どうにかしねえうちに……。俺も……後から追いかけるから……」 「京介……」 「行け、智。|孫《まご》のおまえが行かねーで……誰がじーさんを助けにいくんだよ……!」  京介は、優しい目をしていた。 「京介……オレ……」 「いいから、早くしろ……」  智は、小さくうなずき、京介に背をむけた。  |拳《こぶし》をギュッと握りしめる。 「待ってるから、京介。死んだりしたら許さないから」 (京介……死なないで)  智は、静かに目をあげた。  |舞《まい》|殿《どの》から吹きだす|紅《ぐ》|蓮《れん》の|炎《ほのお》と、その上空を飛びまわる|魑魅魍魎《ちみもうりょう》ども。  炎の前には、|妄執《もうしゅう》の|化《け》|身《しん》のような緋奈子が立っている。 (オレの体が二つあればよかったのに……)  だが、もう|迷《まよ》っている時間はなかった。  智は、思いきって走りだした。  舞殿のそばに駆けつけた時。  智は、一人の少年がペタンと地面に座りこんでいるのを見つけた。  靖夫だ。  泣きながら、手に、血まみれの布を握っている。  布は、左門の着ていた|縞《しま》がらのスーツの一部だ。  さっきまでこの場にいたはずの緋奈子の姿は、見えなかった。  舞殿の反対側へ行ったのかもしれない。 「アニキが……アニキがあっ……!」 「どうしたんです、靖夫君?」 「アニキが……死んじゃった……!」 「左門さんが……?」  靖夫は、火の粉が降りかかるのも気にせず、その場を動こうとしない。 「オヤジが〈|汚《けが》れ|人《びと》〉の心臓を刺そうとしたんで、みっちゃんのアニキが、止めたんだ。それでもみあいになって、アニキ、オヤジをつかまえたまま、一緒に舞殿の|闇《やみ》に飛びこんじゃった。そうしたら、闇がいきなり爆発して……」 「|凝縮《ぎょうしゅく》された闇に、左門さんたちの|霊《れい》|気《き》が混じったから、霊的な|均《きん》|衡《こう》が破れたんですね……。だから、あんなふうに舞殿が爆発したんですよ……」  智は、痛ましげな|瞳《ひとみ》で|呟《つぶや》く。  舞殿から、天にむかって吹きあがる紅蓮の炎。  この炎のなかでは、もう誰も生きていないに違いない。 「アニキ、最後の瞬間に俺を見て、少し笑って『|堅《かた》|気《ぎ》になれよ、ヤス』って……! それから、オヤジに『ご一緒します』って言って……」  靖夫は、震える声で言う。 「たぶん、アニキ、親同然の組長を裏切っちゃったから……死んで筋を通すつもりだったと思う……。でも……こんなのって……あんまりだ……アニキぃ!」 「靖夫君……」  智は、どう|慰《なぐさ》めていいのかわからない。  その背後から、誰かがゆっくりと手をのばした。  智を押しのけ、靖夫の肩をつかむ。 「わいにまかしてんか、鷹塔センセ」 「|勝《かつ》|利《とし》|君《くん》……」  勝利は、智にむかって同情するように|微《ほほ》|笑《え》んでみせた。  肩まである茶色の髪も、Tシャツも、|鬼《おに》や|妖《よう》|怪《かい》どもの返り血に|染《そ》まっている。 「鷹塔センセは、〈|汚《けが》れ|人《びと》〉とナルミちゃんのことで、手ぇいっぱいやろ。ええんや。こっちは、わいが引き受けたる」 「勝利君……」  勝利は、「行け」というふうに、智に手を振ってみせる。 「ごめん、勝利君。靖夫君を頼む……!」 「まかしときぃ!」  その時——。  ふいに、燃え盛る|舞《まい》|殿《どの》の|炎《ほのお》のなかから、|緋《ひ》|色《いろ》の光球が飛びだした。  光球のなかには、|白装束《しろしょうぞく》の老人がいる。 〈汚れ人〉だ。  意識を失っているように見える。 「あ……!」 「お|祖父《じ い》さまが……!」  虎次郎を閉じこめた光球は、緋色の流星のように飛んでいく。  |鶴岡八幡宮《つるがおかはちまんぐう》の奥、|本《ほん》|宮《ぐう》のほうへ。 「〈汚れ人〉の心臓、いただいたわ!」  勝ち誇った緋奈子の叫び。  智は、素早く声のする方角を見た。  |参《さん》|道《どう》を走っていく緋奈子。  そして、その手前で思いつめたように緋奈子を見つめる、京介の姿——。  |天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》の金属片が、京介の手のなかでチカリと光った。 「京介っ! ダメだっ!」 (|妖獣《ようじゅう》になる……!)  智の|頬《ほお》から、血の気が引いた。 (京介……!)  智は、身を|翻《ひるがえ》して、京介に駆けよった。  考えるより先に、体が動いていた。 「ダメだ、京介!」 「|顕《けん》|現《げん》せよ、|降《ごう》|魔《ま》の|利《り》|剣《けん》・|天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》!」  京介の決死の叫びと同時に、純白の光の|刃《やいば》が出現した。  京介は、わびるように智を見、緋奈子に視線をうつした。 「悪いな、智。俺、あの女と決着つけなきゃ」  血まみれの体をまっすぐ起こし、きっぱりと言う。  説得はきかないと、色黒の顔に書いてある。  少年の、というより、それはすでに、一人前の男の顔だ。  やらねばならないことだから、やるしかないのだ……と語る、決然とした|瞳《ひとみ》。 (京介……)  京介は、天之尾羽張を、祈るように目の前に|掲《かか》げた。 「天之尾羽張、力を貸してくれ……!」  ぶわっ……と、純白の光が|膨《ふく》れあがる。  京介は、光のなかで智を見つめ、微笑したようだった。  |眩《まぶ》しげに少し細めた目。  どこか|切《せつ》なげな口もと。  どんなに——この表情を愛したろう。 「死ぬなよ、智」  二度と忘れられないような優しい声。 「京介……」  京介は、許しを|乞《こ》うようにもう一度、|微《ほほ》|笑《え》み、緋奈子にむかって走りだした。  天之尾羽張の力を借りて、緋奈子と決着をつけるために。 「うわああああああーっ!」 「京介ーっ!」 (|嫌《いや》だ……こんな別れ方……!)  一緒に死ぬなら、まだ許せる。  それはそれで、幸福な終わりかとも思う。  だが、離れ離れの場所で、別々に死ぬのは、絶対に嫌だ。 (京介……死ぬなら一緒だ!)  智は、必死に|相《あい》|棒《ぼう》を追いかけた。  少し前を走る|懐《なつ》かしい姿。  純白の光の|剣《つるぎ》を|掲《かか》げて、|闇《やみ》を切りひらいていく。 「オカルトは嫌い」と、泣き言を言っていたのが、|嘘《うそ》のような姿だ。 (京介……)  悲しいくせに、ひどく誇らしくて——。  相反する気持ちに、心が|引《ひ》き|裂《さ》かれそうだ。 (一緒に行きたい……京介、どこまでも一緒に……)  が、二十メートル走ったか走らないうちに、いきなり、|天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》の光が消えた。  京介が、よろめいて、しゃがみこんだ。 「ぐ……うっ……!」  苦しげなうめき声。  その姿勢のまま、前のめりに倒れこんだ。  うつぶせになった京介は、そのまま動かない。  緋奈子は、|嘲《あざけ》るような|瞳《ひとみ》で京介を振り返った。 「もう終わり? かわいそうに」  |魔《ま》の|盟《めい》|主《しゅ》は、何もせず、そのまま走り去った。  智の心臓が、爆発しそうになる。 「|嫌《いや》だ……京介……!」  京介が、両手の|爪《つめ》で|石畳《いしだたみ》をかきむしりはじめた。  その動きが、しだいに激しくなる。 「う……はっ……あああああああーっ!」  今にも死んでしまいそうな|苦《く》|悶《もん》の声。  智は、暴れる京介の肩に手をのばした。 (京介……京介!  あんまりだ……これからって時に……!) 「京介ーっ!」 「あああああああーっ!」  血まみれの背中が、大きくしなった。  ふいに——。  智は、目を疑った。  京介の体が変化していく。  |額《ひたい》が狭くなり、耳が伸びはじめ、|顎《あご》の形が変わる。  それと一緒に、背中が弓なりになり、腰があがり、手足の骨格が変わった。  あっという|間《ま》に、全身に白い毛が|生《は》えてきた。  体も、ひとまわり大きくなったようだ。  変化に要した時間は、わずか五秒ほど。 「きょう……すけ……?」  智は、|茫《ぼう》|然《ぜん》として|呟《つぶや》いた。  そこにいるのは、金色の目、純白の毛の|虎《とら》だ。  ガーッ!  一声|吠《ほ》えると、|妖獣《ようじゅう》は、純白の|尻尾《し っ ぽ》をうち振って、駆けだした。  |本《ほん》|宮《ぐう》へ。  速い速い。  あっという|間《ま》に、|賽《さい》|銭《せん》|箱《ばこ》を|蹴《け》|飛《と》ばして、|拝《はい》|殿《でん》に飛びこんでいく。 「京介……!」  智は、数秒ためらって、妖獣の後を追いかけた。      *    *  |闇《やみ》の|気《け》|配《はい》が、どんどん濃くなる。  だが、|社《しゃ》|殿《でん》内には、|鬼《おに》も|妖《よう》|怪《かい》も入ってこられないようだった。  緋奈子は、薄暗い|廊《ろう》|下《か》を走り、内陣に入った。  |畳敷《たたみじ》きの部屋である。  正面に、ご|神《しん》|体《たい》を祭る|神《かみ》|座《ざ》がある。  神座の前には、|御鏡《みかがみ》があり、その前には、|神酒《み き》や|高《たか》|坏《つき》、|金《きん》|幣《ぺい》などが配置されていた。  畳の上に、虎次郎が倒れている。  まだ、手にしっかりと〈|闇扇《やみおうぎ》〉を握っていた。  くす……と、緋奈子は笑う。 「手に入れた……」  どこからか、短刀を取り出した。  |鞘《さや》を払い、|刀《とう》|身《しん》をむきだしにする。  ギラリ……と光る|刃《やいば》。  緋奈子は、ゆっくりと、虎次郎の上に|屈《かが》みこんだ。  その|刹《せつ》|那《な》。  ガーッ!  |咆《ほう》|哮《こう》とともに、純白の虎が現れた。  金色の目が、緋奈子を認める。 「来たわね、鳴海京介」  緋奈子は、顔をあげ、素早く|印《いん》を結んだ。  だが、それより早く。  ガーッ!  |妖獣《ようじゅう》は、たっ……と|畳《たたみ》を|蹴《け》って、緋奈子に|躍《おど》りかかった。 「甘いわ!」  緋奈子の手もとから、ルビーレッドの|炎《ほのお》の|鞭《むち》が現れた。  炎は、妖獣の全身にからみつく。  バチバチバチバチッ!  火花が飛んだ。  妖獣は、苦しげに頭をあげ、|吠《ほ》え|哮《たけ》る。  ゴロゴロ……と畳を|転《ころ》がる。  |高《たか》|坏《つき》や|御鏡《みかがみ》が倒れ、飛び散った。  だが、炎の鞭は、妖獣にからみついたまま、消えない。  妖獣の毛を真っ黒に|焦《こ》がし、肉を焼く。  ガーッ!  妖獣は、苦痛を無視することに決めたのか、体を低くして身構えた。  何度も緋奈子に飛びかかる。  が、そのたびに、攻撃はかわされた。  十分も死闘をくりひろげたろうか。  妖獣の動きが、目に見えて遅くなる。  ガーッ!  |悔《くや》しげな声をあげて、妖獣は、うずくまった。 「その炎は、触れたものの|霊力《れいりょく》を吸いとって、燃えているの。熱いでしょ。苦しいでしょ。かわいそうにね。でも、死ななきゃ消えないのよ」  緋奈子は、静かな声でささやく。 「もっとも、死んだとしても、緋奈子が|怨霊《おんりょう》にしてあげるから、苦しいのは消えないけれど。その苦痛は、きっと智ちゃんに伝わるわ。無限に|感《かん》|応《のう》し続ける苦痛よ。智ちゃんには、絶対にあなたを|浄化《じょうか》させてあげない。夜も昼も、夏も冬も、生きているかぎり、ずっとずっと智ちゃんは、あなたの苦痛に|悶《もだ》え続けるの」  |魔《ま》の|盟《めい》|主《しゅ》は、|陰《いん》|惨《さん》な|地《じ》|獄《ごく》|絵《え》を思い|描《えが》くように、目を閉じた。 「そんなふうになっても……人間同士の信頼とか愛情って、続くものかしらねえ。智ちゃんみたいな子でも、十年二十年のうちには一度くらい、ふっと、こんな苦痛を味わわせる鳴海京介を、うとましいと思うことがあるかもしれない。会わなければよかったと……思うかもしれない。その時、智ちゃんはどんな顔をするかしら。きっと泣くわね……何度も泣くわね。思い出しては泣くのよ……。そして、そのうちに、智ちゃんは、自分にそんな思いをさせる鳴海京介が、|重《おも》|荷《に》になるのよ。鳴海京介の|記《き》|憶《おく》が、|刺《とげ》みたいに智ちゃんを苦しめて、思い出すのさえ、つらくなる。そうして、智ちゃんは、今の|綺《き》|麗《れい》な|霊《れい》|気《き》を失うんだわ。無意識の部分で鳴海京介を|憎《ぞう》|悪《お》し、|呪《のろ》うことで」  |妖獣《ようじゅう》は、緋奈子の言葉がわかったかのように、かすかな|唸《うな》り|声《ごえ》をあげる。  ガルルルルー……。  だが、ルビーレッドの|炎《ほのお》の|鞭《むち》が、|霊力《れいりょく》を吸いとっていく。  グルルルル……。  |威《い》|嚇《かく》するような唸り声が、どんどん小さくなっていく。  一度、妖獣は起きあがった。  憎悪に燃える金色の目で、緋奈子を|睨《にら》み|据《す》える。  長い沈黙があった。  がくん……と、妖獣の|脚《あし》が|砕《くだ》けた。  激しく|痙《けい》|攣《れん》する体。  金色の目が、緋奈子を睨みあげたまま、|虚《うつ》ろになる。  |静寂《せいじゃく》がおちる。  緋奈子は、そっと妖獣の焼け|焦《こ》げた体に指を|滑《すべ》らせる。 「さあ、鳴海京介。|怨霊《おんりょう》になりましょう」 「そうはさせんよ」  カタン……。  緋奈子の背後で、人の|霊《れい》|気《き》が動いた。  同時に、|黄《こ》|金《がね》|色《いろ》の光が爆発した。 「な……!」  緋奈子が振り返ると、光の中央に〈|汚《けが》れ|人《びと》〉が立っていた。  黄金に輝く〈|闇扇《やみおうぎ》〉を|掲《かか》げている。  最後の力を振りしぼって、闇を|浄化《じょうか》しようというのだ。 「くっ……!」  |鎌《かま》|倉《くら》のすべての闇が|渦《うず》|巻《ま》いて、内陣に流れこんできた。      *    *  |本《ほん》|宮《ぐう》の外では、|麗《れい》|子《こ》が顔をあげた。  |呪《じゅ》|符《ふ》で作った|結《けっ》|界《かい》のなかだ。  |勝《かつ》|利《とし》も、|結《けっ》|界《かい》の|維《い》|持《じ》に|霊力《れいりょく》を貸している。  靖夫が、ふいに指差す。 「見て……!」  本宮の上の空が、真っ黒に変わりはじめた。 「闇の浄化が始まったわ……|嘘《うそ》みたい……」  麗子が、ブルッと身震いした。 「〈汚れ人〉、まだ生きてるんや……」  勝利も、信じられないといった|口調《くちょう》で|呟《つぶや》く。  鎌倉の|街《まち》は、死んだように静まりかえっていた。  無数の|火柱《ひばしら》が天を|焦《こ》がし、街は|廃《はい》|墟《きょ》と化している。  闇と|紅《ぐ》|蓮《れん》の|炎《ほのお》。  人々の悲鳴さえ、聞こえない。  ドドドドドドドドドーッ!  どこか遠くから、|轟《とどろ》くような音が近づいてくる。  ふいに、麗子の足もとから、緋色の|犬《いぬ》|神《がみ》が飛びあがった。  結界を突き破って空に舞いあがる。 「どうしたの……!?」  麗子の視界が、変わった。  |幻《まぼろし》が|視《み》えた。  麗子は、空から鎌倉の街を見おろしている。  |紅《ぐ》|蓮《れん》の|炎《ほのお》に包まれた|街《まち》の南で——。  海が、|膨《ふく》れあがっていた。  十メートルもの暗い水の壁が、ゴーゴーと|唸《うな》りをあげて、近づいてくる。  そして、波の先端に浮かんで運ばれてくるのは——。  |死霊《しりょう》を乗せた木の船団だ。  |平《へい》|家《け》の赤い旗が、|嵐《あらし》のような風に|翻《ひるがえ》っている。  いちばん前の船の中央に、|緋袴《ひばかま》の|女房《にょうぼう》が立っていた。  女房の胸には、七、八歳の子供が抱かれている。  |禁《きん》|色《じき》の|衣装《いしょう》を身につけ、|数《じゅ》|珠《ず》を持った姿。  |壇《だん》ノ|浦《うら》に沈んだ|幼《よう》|帝《てい》。  |安《あん》|徳《とく》|天《てん》|皇《のう》。  八百年の時を|超《こ》えて、平家の死霊たちは、|源《げん》|氏《じ》の|都《みやこ》に入ろうとしていた。  |麗《れい》|子《こ》の視界が、正常に戻る。  チィチィ……と、|犬《いぬ》|神《がみ》が鳴きながら、舞いおりてくる。 「|勝《かつ》|利《とし》|君《くん》、平家の死霊が……」 「ああ……わいにも|視《み》えた」  麗子と勝利は、顔を見あわせた。  だが、二人とも、|結《けっ》|界《かい》を|維《い》|持《じ》するのに精いっぱいだった。  ゴゴゴゴゴゴゴーッ!  |鎌《かま》|倉《くら》が、|闇《やみ》の重みに揺れはじめる。  激しい地震。  |社《やしろ》の|杜《もり》が、闇に|侵《おか》され、みるみるうちに|枯《か》れていく。  暗い空に、ぼんやりと赤い太陽が出た。  東の空から、|鈍《にぶ》い黄色の月が、すさまじい速さで昇ってくる。  太陽と月が、重なる。  ドッ……ドッ……ドッ……!  鎌倉の山間部から、新たな|火柱《ひばしら》が吹きあがった。  この世の終わりを思わせる光景だった。      *    *  智は、闇のなかを走っていた。  京介の|霊《れい》|気《き》が、さっきから感じられない。 (京介……まさか……!?)  気も狂いそうな、|焦燥《しょうそう》と不安。 「京介ーっ!」  柱にぶつかりかけて、両手を前に出す。  あちこちに打ち身を作りながら、必死に走る。 「京介ーっ! お|祖父《じ い》さまーっ!」  不安で、息が止まりそうだった。      *    *  ゴトン……!  |鈍《にぶ》い音をたてて、虎次郎の右腕が、|畳《たたみ》に落ちた。 〈|闇扇《やみおうぎ》〉をしっかり握ったままだ。  |鮮《せん》|血《けつ》が|天井《てんじょう》まで吹きあがる。 「くぅ……っ!」  青白い|蛍《ほたる》が、室内を飛びまわっている。  冷たい光が、すべてを|斑《まだら》に|染《そ》めあげた。  老人は、片手で、落ちた右腕から〈闇扇〉をもぎとろうとする。  |白装束《しろしょうぞく》の右半身が、真っ赤になっていた。  その左の手首を、女の足がギュッと踏みつける。  虎次郎は、顔をあげた。  緋奈子が、|妖《よう》|艶《えん》に笑っている。  |凄《せい》|絶《ぜつ》な微笑。  その一瞬、緋奈子は、どんな女よりも美しく見えた。  全身から輝きでる|魔《ま》の|霊《れい》|気《き》で。 「|無《む》|駄《だ》よ、お|爺《じい》ちゃん。〈|闇《やみ》|舞《まい》〉はおしまい。闇の|浄化《じょうか》なんかさせない」 「緋奈子……」 「さようなら、虎次郎お爺ちゃん。長いこと、ご苦労さま。緋奈子のために、闇を集めてくれて」  再び、カマイタチが起こった。  ゴトッ……!  虎次郎の左腕が、落ちる。  |噴《ふん》|水《すい》のように吹きあがる鮮血。 「う……ぐう……っ……!」  虎次郎は、前のめりに倒れこみ、必死に顔をあげようとした。 「観念なさい」  緋奈子が、〈|闇扇《やみおうぎ》〉を部屋の|隅《すみ》のほうへ|蹴《け》り飛ばす。  その時だった。  |廊《ろう》|下《か》に、美しい影が立った。     第七章 夢の|奥《おく》|津《つ》|城《き》  |蛍《ほたる》の青白い光が、内陣を照らしだす。  |黒《くろ》|焦《こ》げになって倒れている|妖獣《ようじゅう》。  そのそばに、両手を|斬《き》り落とされた|白装束《しろしょうぞく》の老人。  勝ち誇って立つ|魔《ま》の|盟《めい》|主《しゅ》。  |障子《しょうじ》に、美しい影が|映《うつ》っている。  胸の前で交差した両手に、数枚の|呪《じゅ》|符《ふ》を持っていた。 「|京介《きょうすけ》の|霊《れい》|気《き》がもう感じられない。……オレは|間《ま》に|合《あ》わなかった」  血も|凍《こお》るような冷たい声。  |緋《ひ》|奈《な》|子《こ》は、|愛《いと》しげに|微《ほほ》|笑《え》んだ。 「ようやく来たのね、|智《さとる》ちゃん」 「何かほかに言うことは?」 「緋奈子は、〈|汚《けが》れ|人《びと》〉の心臓を手に入れるわ。|邪《じゃ》|魔《ま》はさせない」 「この|鎌《かま》|倉《くら》を、あなたの|墓《はか》|場《ば》にしよう。|自《みずか》ら|汚《けが》し、痛めつけた地で眠るがいい」  |障子《しょうじ》のむこうで、|呪《じゅ》|符《ふ》が光った。  ピ……シッ……!  次の瞬間、緋奈子の全身が|呪《じゅ》|縛《ばく》された。  気がつくと、周囲の空間は、すでに、呪符によって閉ざされている。 「天と地と、見えるもの、見えざるものすべてになり代わり、あなたを|誅伐《ちゅうばつ》する」  誰一人|逆《さか》らうことを許さない宣告。  緋奈子は、必死に呪縛に|抗《あらが》った。 「く……っ! こんな……呪符……くらい……!」 「|無《む》|駄《だ》だ」  障子の|陰《かげ》から、白い|陰陽師《おんみょうじ》が、ゆっくりと歩みだしてくる。  ひどく大人びた高貴な|眼《まな》|差《ざ》し。  銀色の|霊《れい》|気《き》を、|翼《つばさ》のようにまとっている。  智は、部屋の奥で|優《ゆう》|雅《が》に|屈《かが》みこみ、〈|闇扇《やみおうぎ》〉を拾いあげた。  |凜《りん》とした|瞳《ひとみ》が、両腕を|斬《き》り落とされた老人の上におちる。 「お|祖父《じ い》さま」  |虎《こ》|次《じ》|郎《ろう》は、弱々しく頭をあげた。 「さ……とる……か……|凜《り》|凜《り》しいのう……」  |蒼《そう》|白《はく》な|頬《ほお》に、|笑《え》みのようなものがかすめた。 「ナツに……見せ……たいの……」  虎次郎の|白装束《しろしょうぞく》は、真っ赤に|染《そ》まっていた。  たとえ今から|止《し》|血《けつ》したとしても、出血多量で、もう助からないだろう。  天才陰陽師は、一瞬のうちに、それだけのことを見てとった。  美しい顔に、悲しみの色が浮かぶ。 「お祖父さま……」 「闇の……|浄化《じょうか》……頼む……」 「はい」  智は、流れるような動作で立ちあがった。  どうやって、浄化していいのか、正式な|継承《けいしょう》ではないので、わからない。 「心を……ゆだねよ……智……」  虎次郎が、|呟《つぶや》く。 「〈闇扇〉に……|訊《き》け……」  智は、小さくうなずいた。 〈闇扇〉に心をゆだねる。  同時に、知識が、智のなかに流れこんできた。 (ああ……そうか)  智の体が、勝手に動きはじめる。  まるで、〈闇扇〉を持った手から先が、別の生き物になったようだ。  さす手、かざす手。  銀の|霊《れい》|光《こう》をたなびかせ、ゆるやかに舞う。  流れるような動作。  やがて、〈闇扇〉が|黄《こ》|金《がね》|色《いろ》に輝きだす。  その輝きに呼ばれるように、無数の黒い|揚《あ》げ|羽蝶《はちょう》が、内陣に飛びこんできた。  オオーン……オオーン……。  オオーン……。  地の底から|湧《わ》きあがるような|不《ぶ》|気《き》|味《み》な声。  それが——黄金色の輝きが強まるにつれて、かすかになっていく。  ふいに、黒い揚げ羽蝶が、白く変わった。  白い揚げ羽蝶は、旋風のように舞い、キラリ……と光って、空気に溶ける。  蝶が消えるたびに、|芳《かぐわ》しい風が、智を包んだ。  すべてが|浄化《じょうか》されていく——。 「おう……美しいのう……」  かすかな虎次郎のささやき。 「これで……わしも、安心して……|逝《い》ける」  智は、緋奈子が、|呪《じゅ》|縛《ばく》されたまま、じっとこちらを|凝視《ぎょうし》しているのを感じた。  伝わってくる緋奈子の|憎《ぞう》|悪《お》。 「そんなに、オレが|憎《にく》いのか、緋奈子」  智は、〈闇扇〉をかざしながら、そっと尋ねた。  闇を浄化するはずのこの|舞《まい》が、どうして緋奈子の心を浄化しないのか、|不《ふ》|思《し》|議《ぎ》だった。  人の心の闇は、人の|技《わざ》によっては消せないものか。 (あなたの闇は、そんなに深いのか……緋奈子? だとしたら、なぜ?) 「大地の闇が……消える……」  緋奈子が、かすれた声で|呟《つぶや》いた。 〈|汚《けが》れ|人《びと》〉は、不完全なやり方ながら、|孫《まご》の智に|継承《けいしょう》された。  もう、虎次郎の心臓に価値はない。 「何もかも……終わってしまったわね……」  |魔《ま》の|盟《めい》|主《しゅ》らしからぬ弱々しい呟き。  智は、驚きのあまり、一瞬、舞を止めた。 「緋奈子……?」  ポタリ……ポタリ……!  |大《おお》|粒《つぶ》の涙が、|畳《たたみ》に落ちる。  緋奈子が、泣いていた。 「涙なんか……何年も流してなかったのに……|悔《くや》しい……許さないわ、智ちゃん」 「どうして泣くんだ、緋奈子? どうして? ……オレにはわからない」 「わかるもんですか……! 智ちゃんには、一生わからない!」  緋奈子は、ギリリと|唇《くちびる》を|噛《か》みしめた。  |鮮《せん》|血《けつ》の|粒《つぶ》が、口の|端《はし》に盛りあがる。  狂女のような|三《み》|日《か》|月《づき》|形《がた》の|笑《え》みが、真っ赤な唇に浮かんだ。  緋奈子の|霊《れい》|気《き》が、変わる。  火炎の形のすさまじい霊光。  虎次郎が、緋奈子の霊気の変化にギクリとしたようだった。 「智……気を……つけるのじゃ……! この霊気は……覚えがある。そうじゃ……|火《ほ》|之《の》|迦《か》|具《ぐ》|土《つち》……!」 「火之迦具土……!?」  智の全身に、おののきが走る。  イザナギとイザナミのあいだに生まれた火の神・火之迦具土は、日本最強の|邪《じゃ》|神《しん》である。  この神は、母神イザナミを焼き殺して生まれ、生誕直後に、実の父であるイザナギによって|惨《ざん》|殺《さつ》された。  そして、イザナギが火之迦具土を|斬《き》り殺す時、使った|剣《つるぎ》が、|天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》。  日本史上最古の子殺しの剣だ。  一度惨殺された火之迦具土は、|甦《よみがえ》らぬよう|封《ふう》|印《いん》された。  天之尾羽張を封印の|要《かなめ》として、九州のとある|社《やしろ》に。 「あ……」  邪神の|霊《れい》|気《き》に、智の全身の震えが止まらない。 「智ちゃん、霊気が弱まってきたわね。……もうすぐ、緋奈子はこの|呪《じゅ》|縛《ばく》から自由になるわよ。そうしたら、今度こそ遠慮なしに殺してあげるわ」  緋奈子は、今までとうって変わって、自信に満ちた|妖《よう》|艶《えん》な|口調《くちょう》でささやく。  同時に、智の体がふらついた。 「う……!」 「正式に〈|闇扇《やみおうぎ》〉を|継承《けいしょう》しなかったからよ。いくら智ちゃんが天才|陰陽師《おんみょうじ》でも、こんなやり方じゃ、体に|負《ふ》|担《たん》がかかって当然だわ。……ほら、立っていられなくなる。このままだと死んでしまうわ」 「緋奈子、火之迦具土に|憑依《ひょうい》されているのか。いつから……?」  智は、今にも倒れそうな体を起こし、緋奈子を見つめた。  邪神の霊気が|視《み》えたことで、いくつもの|謎《なぞ》が氷解していく。 (ああ……そうだったんだ……) 「|魔《ま》の|盟《めい》|主《しゅ》になったのは……火之迦具土のせいだったのか……?」 「智ちゃん……」  緋奈子は、大きく目を見開いた。  狂女のようだった表情が、微妙に変化する。  まるで、肩の荷がおりて、ホッとしたように見える。 「そうよ。六年前、九州の社で、緋奈子は火之迦具土を解放したの。事故だったのよ。……緋奈子は、父に……|犯《おか》されそうになった。だから、殺してやったのよ。火之迦具土の力で。それからだわ。火之迦具土の|怨《おん》|念《ねん》が、緋奈子を動かすの。苦しいのよ……この国を破壊しつくさないかぎり、緋奈子は決して楽にはなれない……。緋奈子の闇は、消えないの」 「緋奈子……」 「智ちゃん……。どうして、あたしたちは、こんな場所に来てしまったんだろう。遠いところまで来てしまったわね……。きっと、二人とも望まなかった場所なのに……」  長く、重い沈黙が続く。  智は、ゆっくりと〈|闇扇《やみおうぎ》〉を閉じた。 (緋奈子……だから、泣いたんだ……)  だが、智には、もう緋奈子に|憑依《ひょうい》した火之迦具土を|祓《はら》う|霊《れい》|気《き》は、残っていなかった。  全身が氷のように冷え、感覚がなくなっている。  智は、ふらつき、|膝《ひざ》をついた。  もう立っていられない。  最後の力を振りしぼって、|妖獣《ようじゅう》の|傍《かたわ》らに|這《は》いよった。  智の視界が、クラリと回転した。  気がつくと、|黒《くろ》|焦《こ》げになった妖獣の上に折り重なって、倒れている。  一瞬、気を失ったらしい。 「京介……」  智は、|肘《ひじ》をついて少し身を起こし、妖獣の顔を見おろした。  |無《む》|惨《ざん》に焼け焦げた毛の感触に、胸が痛む。 (痛かった……京介? 苦しかった……?)  |懐《なつ》かしい京介の霊気は、もうどこにも感じられない。 「京介だけは……助けたかったのに……」  ひどく|切《せつ》ない。 「ごめん……京介……ごめん……」 (オレも……すぐ|逝《い》くから……)  智は、妖獣の顔にグッと顔をすりつけた。  黒焦げになった妖獣の口に、そっと|唇《くちびる》を押しあてる。 「京介……」  思いがけず、涙がこぼれた。  意識が遠くなり、周囲の音が消える。  智は、感覚のない腕を妖獣の首にまわし、目を閉じた。  銀色の霊気が、消滅した。      *    * 「智……!」  虎次郎が、|鋭《するど》い声をあげた。 「い……や……!」  緋奈子が、ささやく。  ふいに、緋奈子の|呪《じゅ》|縛《ばく》が、|解《と》けた。  |呪《じゅ》|符《ふ》が、紙きれになってひらひらと舞い落ちてくる。  術者である智の|霊《れい》|気《き》が、消えたためだ。 「|嫌《いや》あああああああーっ!」  緋奈子が、悲鳴をあげた。  ドッ……ドッ……ドッ……!  |本《ほん》|宮《ぐう》のあちこちから、|火柱《ひばしら》があがった。  火の手は、みるみるうちに、内陣に|迫《せま》ってくる。  緋奈子は、その場に座りこんだまま、動かなかった。  |自棄《や け》になって、もうどうにでもなれというような姿。  室内には、熱気と煙がたちこめている。  パチパチと音をたてて、燃える建物。  どこかで、|床《ゆか》|板《いた》が|崩《くず》れたようだ。  ゴッ……ゴゴゴゴゴーッ!  やがて、火のついた|梁《はり》が落ちてくる。  ドドッ……!  舞いあがる赤と金の火の粉。 「逃げんのか……?」  苦しげな声で、虎次郎が尋ねる。  両腕を|斬《き》り落とされた老人は、動くに動けない。  あとは、死を待つばかりだ。 「もう……いいの。緋奈子は、この先へは行かない。智ちゃんと一緒に終わるの」 「死ぬ気か……?」 「どうせ、逃げられないわ」  緋奈子は、|他人《ひ と》|事《ごと》のように言い捨てた。 「緋奈子の霊気も限界よ。ここで、みっともなくあがくよりは、|潔《いさぎよ》く死んだほうがいいわ」 「生きられる可能性を捨てて犬死にするのは、みっともなくないのかね」  煙を吸いこんで、虎次郎は、しばらくゲボゲボと|咳《せき》こんだ。 「苦しい? 緋奈子が、ひと思いに殺してあげましょうか」 「いらんお世話じゃ……」  言いかけた虎次郎は、耳をそばだてた。 「どうやら……おまえさんがこの場で死ぬのは、無理のようじゃの……」 「なんですって……?」  真っ赤な|炎《ほのお》が|映《うつ》る|障子《しょうじ》。  そのむこうから、長身の人影が近づいてくる。  白衣が、|翻《ひるがえ》った。      *    *  銀ブチ|眼《め》|鏡《がね》の美青年が、緋奈子の前に立った。  くすくす笑いながら、手を差し出す。 「迎えにきてやった、緋奈子。さあ、おとなしく帰ろう」 「|時《とき》|田《た》忠弘……!」  緋奈子は、すさまじい|瞳《ひとみ》で|従兄《い と こ》を|睨《にら》みつけた。 「この……裏切り者!〈|召魂《しょうこん》の鈴〉はどうしたの!? あなたが鈴を振らなかったから、何もかも失敗したわ! それなのに、緋奈子を迎えにくるなんて……!」  時田忠弘は、しばらくニヤニヤしながら、緋奈子が彼を|糾弾《きゅうだん》するのを聞いていた。 「|卑怯《ひきょう》な裏切り者! よくも、平然と緋奈子の前に顔を出せたものね……!」 「悪かったな、ピヨ子。ちょっとタイミングが悪くてね」  |心霊治療師《サイキック・ヒーラー》は、ぬけぬけと言う。 「わたしとしては、連れて帰るのは、智のほうがよかったんだが……どうやら、ピヨ子のほうが、まだ|活《い》きがよさそうだ。この際、|贅《ぜい》|沢《たく》もいっていられないからなあ。いい子だから、一緒においで」 「|嫌《いや》よ。緋奈子は、ここで死ぬの」 「死ぬだって……? またまた、|縁《えん》|起《ぎ》でもない|冗談《じょうだん》を言うものじゃないよ、ピヨ子。|魔《ま》の|盟《めい》|主《しゅ》が自殺なんかしたら、|世《せ》|間《けん》の物笑いの|種《たね》になるじゃないか。恥ずかしいから、わたしと一緒に帰ろう。ほら、手を出して」 「やめて! 緋奈子は、帰らない! ここで、智ちゃんと一緒に死ぬの! ほうっておいて! 助けてほしくなんかないわ!」 「|自棄《や け》になるな、ピヨ子」  時田は、|皮《ひ》|肉《にく》めいた笑いを浮かべた。 「わたしは、おまえを死なせるつもりはないよ。今のところはね……」  緋奈子は、わずかに目を細めた。  時田の|気《け》|配《はい》が、微妙に違う。 (え……?) 「時田忠弘……あなた!?」 「お休み、緋奈子」  時田は、片手で銀ブチ眼鏡をはずした。  |瞳《ひとみ》の色が変わる。  ハシバミ色から、エメラルドグリーンの|邪《じゃ》|眼《がん》に。 「あ……!」  とっさに目を伏せようとした緋奈子だったが、邪眼の支配力のほうが強かった。  頼りなく、|崩《くず》れ落ちる少女の体。  時田は、軽々と緋奈子を|抱《かか》えあげた。 「では、先代〈|汚《けが》れ|人《びと》〉殿……」  |慇《いん》|懃《ぎん》に虎次郎に頭を下げると、|魔《ま》|王《おう》は、|紅《ぐ》|蓮《れん》の|炎《ほのお》のなかへ歩きだした。      *    *  |本《ほん》|宮《ぐう》が、崩れはじめた。  |闇《やみ》の去った|鎌《かま》|倉《くら》は、青空が戻っていた。  だが、|鶴岡八幡宮《つるがおかはちまんぐう》の上空は、|黒《こく》|煙《えん》に|覆《おお》われている。  火勢は、激しくなるばかりだ。  紅蓮の炎が、建物全体から吹きだす。  突然、本宮が爆発した。  耳のつぶれそうな|轟《ごう》|音《おん》。  炎と煙のなかから、白っぽいものが飛びだした。  時田忠弘だった。  両腕に、意識のない緋奈子を抱えている。  白衣の|裾《すそ》を|翻《ひるがえ》して、|心霊治療師《サイキック・ヒーラー》は、空の|彼方《か な た》に飛び去った。  本宮は、もう原形をたもっていない。  巨大なキャンプファイアーのように、メラメラと|深《しん》|紅《く》の炎をあげ続ける。 「智ーっ! 京介君ーっ!」  |麗《れい》|子《こ》が、顔色を変えて、炎のなかに駆けこもうとした。  一瞬早く、|勝《かつ》|利《とし》が、その両肩を抱きとめた。 「あかん! 死ぬで!」 「でも、智と京介君が、まだあのなかに!!」 「もうあかん! あの爆発んなかや、もう助からん」 「そんな……!」  麗子は、その場に座りこみ、顔を覆った。  スーツの肩が、|小《こ》|刻《きざ》みに震えはじめる。  |犬《いぬ》|神《がみ》が、|慰《なぐさ》めるように、麗子の肩にとまった。  |前《まえ》|脚《あし》を麗子の|顎《あご》にかけ、小さな|舌《した》で|頬《ほお》をなめる。  気がつくと、麗子と|勝《かつ》|利《とし》の隣に、|夏《なつ》|子《こ》が立っていた。  老女は、|穏《おだ》やかな顔でしゃがみこみ、麗子の肩を抱きしめる。  |犬《いぬ》|神《がみ》が、抗議するようにチィチィ鳴いた。 「残された者が、泣いてはいけませんよ。あの人たちが、安心して|逝《い》けなくなってしまいますもの。泣かないで……ね」 「でも……お|婆《ばあ》さま……! あんまりです……! まだ、智も京介君も若いのに……!」  勝利は、腕組みして、じっと火炎を見つめていた。  沈痛な|眼《まな》|差《ざ》しだ。  |靖《やす》|夫《お》も、両手で口を押さえている。 「こんなことって……!」  真っ赤に泣きはらした目に、また涙が浮かんでくる。 「こんなことまで……しなきゃなんなかったんですか!? 教えてください! アニキが死んで、智さんが死んで、京介さんが死んで……! こんな|犠《ぎ》|牲《せい》払ってまで、守んなきゃならないものがあるんですか!?」 「そうですよ」  夏子が、そっと|呟《つぶや》く。  最愛の夫と|孫《まご》を|一《いっ》|時《とき》に失った老女は、悲しげな|瞳《ひとみ》で、靖夫に|微《ほほ》|笑《え》む。 「|左《さ》|門《もん》さんも、命に代えてもあなたを守りたかったでしょうし、虎次郎も、智もそうですよ、きっと。何より大事なものを守るために、命を投げだしたんです」 「お婆さん……!」 「あの人たちが、命がけで守ろうとしたものを……大事にしなければいけませんよ。だから、後を追おうなんて、考えちゃいけないの。わかるわね……靖夫さん。わたしたちにできることは、そんなことくらいなんですよ。ねえ……」  靖夫は、しゃくりあげながら、何度もうなずく。 「はい……はい……」 「いい子ね。左門さんが、あなたを|可《か》|愛《わい》がったのがわかるわ」  夏子は、右手で靖夫を招く。  左手で麗子を抱きしめたまま、右手で靖夫の手を握りしめた。  |励《はげ》ますように。  靖夫が、声を放って泣きだした。 「アニキぃ……!」  勝利も、|拳《こぶし》を握りしめ、グイと目をこすった。  犬神が、麗子の肩にとまったまま、不安げな鳴き声をたてる。  |麗《れい》|子《こ》は、震える指先で|犬《いぬ》|神《がみ》を|撫《な》で、|微《ほほ》|笑《え》もうとした。 「|大丈夫《だいじょうぶ》……ごめんね……ごめん……」  その時——。  |紅《ぐ》|蓮《れん》の|炎《ほのお》のなかで、黒っぽいものが動いた。 「あ……!」  夏子が、息を|呑《の》んだ。  そのただならぬ様子に、麗子が、涙に|濡《ぬ》れた顔をあげる。 「え……?」 「なんや……?」  勝利も、いぶかしげに、数歩、前に出た。  その表情が、ふいに引き締まった。 「この|霊《れい》|気《き》……!?」  靖夫が、涙に|曇《くも》る目を、大きく見開いた。 「まさか……?」  四人は、ある期待をもって、炎のなかに目を|凝《こ》らした。  |鶴岡八幡宮《つるがおかはちまんぐう》の|境《けい》|内《だい》は、シン……と静まりかえった。  息づまるような沈黙。  炎のなかから、人影が、ゆっくりと歩きだしてきた。  夏子が、|茫《ぼう》|然《ぜん》としたまま、立ちあがった。  麗子も、身を起こす。  勝利は、ゴクリ……と|唾《つば》を呑みこんだ。 「ホンマか……」  炎の熱気のなかに、二つの体が、|陽炎《かげろう》のように揺らめいた。  |深《しん》|紅《く》の炎を背にして——。  京介が立っていた。  焼け|焦《こ》げた服で、|素《す》|足《あし》だ。  人間の姿に戻っている。  だが、その目は、何かに|憑《と》りつかれたようだ。  仲間たちの姿を見ても、それと気づいた様子はない。  そして、京介の両腕のなかに抱きかかえられて——。  智が、いた。  ぐったりと目を閉じて、意識不明のまま。  全身の重みを、京介に預けている。  血まみれのコットンシャツ。  力なくたれた細い腕。  だが、その手のなかに、〈|闇扇《やみおうぎ》〉がしっかりと握られていた。 「智……〈闇扇〉を|継承《けいしょう》したのね……」  |麗《れい》|子《こ》が、誰にともなく|呟《つぶや》く。  夏子は、着物の|裾《すそ》をさばき、よろめくような足どりで、二、三歩、歩きだした。  |石畳《いしだたみ》の上に、夏子の濃い影が落ちた。 「あ……」  老女の|瞳《ひとみ》にしか|映《うつ》らない光景がある。  智と京介の背後に、|幻《まぼろし》のように、青白く浮かびあがっている|霊《れい》|体《たい》。  |翼《つばさ》のように両手を広げ、|微《ほほ》|笑《え》む|懐《なつ》かしい姿。  |小《こ》|柄《がら》な老人——|鷹《たか》|塔《とう》虎次郎。  |透《す》きとおる霊気が、智と京介を|紅《ぐ》|蓮《れん》の|炎《ほのお》から守っている。  とっくに死んでいたはずの京介に霊気を|注《そそ》ぎこみ、ここまで歩いてこさせたのも、虎次郎の力だ。 「あなた……」  夏子のかすかな呼びかけに、虎次郎は、視線をこちらにむけたようだった。  ——おまえのところに帰ろうと思ったのだが、無理だったよ。  虎次郎の声は、夏子の耳にだけ聞こえてくる。  ——わしの体は、もう燃えつきた。だが、|嘆《なげ》くな、ナツ。わしは、お役目を果たして、天に|還《かえ》るのじゃ……。おう……生まれてから、今この時ほど、こんなにすがすがしい気分になったことはないぞ。  虎次郎は、残されたすべての|霊《れい》|気《き》を、智と京介を救うために使いきったのだ。  ——さらばじゃ。後を、頼む……ナツ。 「はい、あなた……」  夏子の答えに、老人は、安心したように、一つうなずいた。  |想《おも》いをこめた|微《ほほ》|笑《え》みが、虎次郎の|唇《くちびる》に浮かぶ。  そして、それきり、虎次郎の|霊《れい》|体《たい》は|視《み》えなくなった。      *    * 「俺、あの火んなかで、智のじーさんの声、聞いたよ……」  京介が、ポツリと|呟《つぶや》いた。 「お|祖父《じ い》さまの……?」 「ああ……。智を頼むってさ」  京介は、ベッドに上半身を起こしたまま、病室の窓の外に目をやった。 〈|闇《やみ》|送《おく》り〉の本祭の日と同じ、ぬけるような青空だった。  だが、あれからわずかのあいだに、夏は過ぎ去り、|街《まち》には秋風が立ちはじめていた。  京介は、あの事件の後、JOAの用意したヘリコプターで東京に運ばれ、入院した。  |妖獣《ようじゅう》への急激な変化が、予想以上に、京介の体に|負《ふ》|担《たん》をかけたらしい。 「今でも、時々、夢にみるよ……|鎌《かま》|倉《くら》のこと」 「京介……」 「でも、|怖《こわ》くて目が覚めるたび、じーさんの声が聞こえるような気がする」  京介は、静かな表情で、智を見つめた。 「『大地はおまえの味方だ。おまえが人だろうが、妖獣だろうが、|剣《つるぎ》の|化《け》|身《しん》だろうが、おまえの踏みしめる大地は、変わらない』って……」 「オレも変わらないよ……京介」  智は、京介の腕に、そっと手を置いた。 「京介が何になっても、オレは京介のそばにいるから」 「うん……」  京介は、智の手に、自分の手を重ねる。  優しい微笑が、京介の|唇《くちびる》に浮かんだ。  光に|透《す》けて、|綺《き》|麗《れい》な|褐色《かっしょく》に見える|瞳《ひとみ》。 「また、一緒に歩いていけるよな……智」 「|大丈夫《だいじょうぶ》だよ」  智は、確信をもって、はっきりと答える。  不安で、大事な人を傷つけたり、遠ざけるのではなく——。  |重《おも》|荷《に》をわけあって、二人、歩いていける。  少なくとも、まだ今は。  京介と一緒に、空の深い青を|眺《なが》めていると、どんなことでもできそうな予感がする。 「世界じゅうで、俺たち二人だけならいいな……」 「何が、京介?」 「この空、見てるの」 「そうだね……」  まるで空気のような会話をかわしながら、同じものを見つめる。 (ずいぶん遠くまで来た……)  京介の指が、智の指に|滑《すべ》りこみ、しっかりと握りしめる。  智は、ベッドの|端《はし》に腰かけ、京介の胸に背をもたせかけた。  そのまま、二人は|彫像《ちょうぞう》のように、ずっと動かなかった。 [#地から2字上げ]『銀の共鳴4』に続く     『銀の共鳴』における用語の説明 [#ここから1字下げ]  これらの用語は、『銀の共鳴』という作品世界のなかでのみ、通用するものです。  表現の都合上、本来の意味とは違った解釈をしていることを、ここでお断りしておきます。  |陰陽師《おんみょうじ》や|式《しき》|神《がみ》について、|詳《くわ》しくお知りになりたいかたは、巻末に参考文献の一覧がありますので、そちらをご覧になってください。 [#ここで字下げ終わり] |天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》……|降《ごう》|魔《ま》の|利《り》|剣《けん》とも呼ばれる。普段は十五センチほどの金属片だが、|鳴海京介《なるみきょうすけ》の|霊《れい》|波《は》と意思に|感《かん》|応《のう》して、一メートルほどの純白の光の|刃《やいば》となって|顕《けん》|現《げん》する。 陰陽師……式神を|操《あやつ》り、|退《たい》|魔《ま》や|呪《じゅ》|咀《そ》、|除災招福《じょさいしょうふく》などを行う術者。 |汚《けが》れ|人《びと》……大地の汚れ(|闇《やみ》)を我が身に引き受け、浄化しながら放浪して歩く術者の呼び名。 〈汚れ人〉は、|世襲制《せしゅうせい》のため、一時代に一人しかいない。現在は、|鷹《たか》|塔《とう》|家《け》当主がその任にあたっている。 |祭《さい》|文《もん》……|祝詞《の り と》のこと。同じものでも、神官が|唱《とな》える時は「祝詞」、陰陽師が唱えると「祭文」になる。 JOA……ジャパン・オカルティック・アソシエーション。財団法人日本神族学協会の略。日本国内|唯《ゆい》|一《いつ》の霊能力者の管理・教育機関で、超法規的組織である。多くの霊能力者を抱え、退魔|報酬《ほうしゅう》による|莫《ばく》|大《だい》な資金を|擁《よう》し、政財界やマスコミ、司法当局に大きな影響力を持っている。 |式《しき》|固《がた》め……霊力のある人間が、自分の身を|防《ぼう》|御《ぎょ》|壁《へき》代わりにして、魔のターゲットとなった者を守る呪法。途中で式固めを破られれば、その術者は死ぬ。 式神……陰陽師が呪術を行う際に|操《そう》|作《さ》する神霊。紙の呪符から作ったり、神や|鬼《おに》をとらえて|使《し》|役《えき》したりするなど、製造方法は多種多様。 |四《し》|識《しき》|神《じん》……鷹塔智の四体の式神、|桜良《さ く ら》、|睡《すい》|蓮《れん》、|紅葉《も み じ》、|吹雪《ふ ぶ き》の総称。式神は、識神とも表記する。 |咒《じゅ》……ここでは|真《しん》|言《ごん》の別称として使っている。 |呪《じゅ》|禁《ごん》|師《じ》……JOA内部における|呪《じゅ》|殺《さつ》|者《しゃ》の正式名称。 呪殺……霊能力で人を|呪《のろ》い殺す行為。JOAでは、これを堅く禁じている。だが、呪殺を禁じるJOA自身が、一方では、心霊犯罪の|被《ひ》|告《こく》の|処《しょ》|罰《ばつ》と、活動資金調達のため、呪殺を|請《う》け|負《お》っているという|噂《うわさ》がある。 |火《ほ》|之《の》|迦《か》|具《ぐ》|土《つち》……イザナギとイザナミのあいだに生まれた火の神。実の母を焼き殺して誕生し、その直後に実の父に|斬《き》り殺された。日本最強の|邪《じゃ》|神《しん》である。その|怨《おん》|念《ねん》は、今も|浄化《じょうか》されていない。 |闇扇《やみおうぎ》……〈汚れ人〉が、体内に闇を招きよせる呪具。〈汚れ人〉の|象徴《しょうちょう》でもある。 闇送り……〈汚れ人〉が、|生涯《しょうがい》かけて体内にためこんだ闇を浄化し、後継者を選んで死ぬ儀式のこと。この時、〈汚れ人〉が|終焉《しゅうえん》の地に選んだ場所で、前後三日間の祭りが行われる。主祭の最後に〈汚れ人〉の象徴である〈闇扇〉が、後継者に手渡される。     あとがき  どうも、こんにちは。  この本からお手にとってくださった読者様には、はじめまして。 『銀の共鳴3』『|炎《ほのお》の|魔《ま》|法《ほう》|陣《じん》』をお届けします。  ちなみに、3とついてますが、このシリーズは一話完結形式で、どの巻から読んでもOKです。  前の巻の内容も、読んでなくてもわかるように書いてます。読んだけど、忘れちゃった……ってかたにも親切です(笑)。  今回、書きたかったのは、「|炎上《えんじょう》する|鎌《かま》|倉《くら》」です。  中世の|怨霊《おんりょう》や|鬼《おに》がうろつきまわり、|妖《よう》|怪《かい》とJOAが|跋《ばっ》|扈《こ》する東国の古都。  |相模《さ が み》|湾《わん》沖には、|平《へい》|家《け》の|死霊《しりょう》の船団が現れ、|源《げん》|氏《じ》の|都《みやこ》の|崩《ほう》|壊《かい》を見つめる。  爆発炎上する鎌倉の|街《まち》。  |闇《やみ》と炎と血に|彩《いろど》られた一大スペクタクル・ロマン。  史上最大のイベント・〈闇送り〉の祭りの三日間。  鎌倉は、魔の都になる。  そのなかを駆けぬける純白の|陰陽師《おんみょうじ》・|鷹塔智《たかとうさとる》。  そして、|妖獣化《ようじゅうか》した|鳴海京介《なるみきょうすけ》。  京介の|降《ごう》|魔《ま》の|利《り》|剣《けん》・|天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》は、誰に向けられるのか!?  こういう話です。  ところで、今さら言うのもなんですけれど。  このシリーズは、現代の日本が舞台ですが、文中で登場する土地や事物は、かならずしも「現実」のものとは一致していません。 「現実」の場所やものは、あくまでモデルにしか使っておりませんので、混同なさらないようにご注意ください。  なるべく、「現実」の場所やものを調べて、書けるかぎりは、そのとおりに書いていますけれどね。  今回も、鎌倉関係の資料を集めて、舞台になった鎌倉のそれぞれの場所にも、十回くらい行って、自分の足で歩いてみました。|岡《おか》|野《の》が実際に歩いてない場所は、書いていません。  でも、そこまで調べても、やっぱり、アレンジして書きたい部分もあるわけですから。 「現実」とのささやかな食い違いは、笑って|見《み》|逃《のが》してやってくださいね。  アレンジの最たるものは、主人公・鷹塔智の職業。  実は、厳密にいうと、|陰陽師《おんみょうじ》っていうのは、|退《たい》|魔《ま》できるほど強い力はありません。  |安《あ》|倍《べの》|晴《せい》|明《めい》のように強い力を持つケースは、例外中の例外なんですよ。  安倍晴明の場合は、母親が|狐《きつね》だったため、半分しか人間じゃなかったという特殊な事情があります(まあ、安倍晴明に関しても、いろいろな説がありますけど、|岡《おか》|野《の》は、晴明様の母親は狐だった……という説をとってます)。  陰陽師というのは、もともと、奈良・平安時代に陰陽の|寮《つかさ》に属して、陰陽五行説に基づいて、日の|吉凶《きっきょう》などを|占《うらな》った専門家のことをいいます。  いわば、|律令《りつりょう》時代の宮廷天文学者です。  退魔の専門家というよりは、お役人さまだったんですよ。  中世、近世になって、民間で|加《か》|持《じ》|祈《き》|祷《とう》する者も、出るには出ましたが。  本格的に退魔をやっていたのは、|坊《ぼう》|主《ず》たちのほうです。  そんなわけで、設定の最初の段階で、智を坊主にすべきか、ずいぶん迷ったんですよね。  これだけ|派《は》|手《で》に退魔やってるんだから、陰陽師程度の力じゃ無理。  でもね、岡野は、智が美少年の天才坊主になるのは、どうしても|嫌《いや》だったんです。  だから、陰陽師にしました。これ、岡野の美意識です。  そういうわけで、『銀の共鳴』の世界では、陰陽師が坊主たちより大きな顔をして、退魔して歩いてます。ご了承ください。  キャラクターの名前について。  実は、岡野は、一巻からずっと、友人に原稿を下読みしてもらってるんですけど、三巻の序章まで読んだ時点で、彼女の言ったことは……「この『とも』って誰? 新キャラクター?」。  はあ……すいませんね。それは「さとる」(主人公の名前)って読むんです。  この超アバウトな友人は、実在する(泣)。  今回から、諸般の事情で、京介が智を「さとる」じゃなくて、「智」と呼ぶようになったもので、よけい「とも」って読む人が増えそう……。  もっとも、作者自身、以前、ペーパーで、何げなく「|桜《さくら》は|智《さとる》の花」と書いて、よく見たら、「桜は|智《とも》の花」と読めて、|悶《もん》|絶《ぜつ》した経験がありますが。  今後、登場人物の名前は、読み方が一つしかないようなのにしよう……と固く誓いましたね、私は。  ところで、今回、智の|相《あい》|棒《ぼう》・鳴海京介が|妖獣《ようじゅう》になります。  さて、どういう妖獣かといいますと……だ。  陰陽五行思想のほうで、|青竜《せいりょう》、|朱《す》|雀《ざく》、|白虎《びゃっこ》、|玄《げん》|武《ぶ》……というのがありますが、青い竜は妖獣って感じじゃないし、朱雀もなんだし、黒いカメと|蛇《へび》の合体したの(玄武)も|嫌《いや》だし、というわけで、京介は白い|虎《とら》になりました。  で、そういう話を友人たちにしたら、各人各様の反応があって|面《おも》|白《しろ》かったので、ご紹介します。  ◇友人Aの場合……「京介が妖獣っていうと、|触手《しょくしゅ》がにょろにょろ出てきて、『シャゲェーッ!』とか叫んで、智にあんなことも、こんなこともするのかと思った」  そ……そこまでは、作者も考えなかったわ。  ◇友人Bの場合……「智が、妖獣になった京介にキスして、それで、京介が人間に戻るんでしょ(笑)」 『美女と野獣』を|観《み》ましたね(笑)。あ、ちょっと違うか。でも、いいかもしんない。  ◇友人Cの場合……「京介が、|恐竜《きょうりゅう》みたいな妖獣になって襲ってくるのかと思った。で、京介が近づいてくると、コップのなかの水が揺れるの」  京介はティラノ君ですかい。  ◇友人Dの場合……「京介が白い|象《ぞう》になって、『パオーン!』とかいって、トストス走っていっちゃう」  白虎ってありがちなので、ほかに白い動物いないかなーとご相談した時の発言。  これ、大爆笑でした。思わず、|虎《とら》の取材に行ったはずの京都動物園で、象の写真をいっぱい|撮《と》ってきちゃいました。一瞬、マジで白い象にしようかと思ってしまった。だって、象になった京介の「パオーン!」が目に浮かんじゃうんだもん。ああ……見送って|茫《ぼう》|然《ぜん》とする智の姿も目に浮かぶわ。  ええと、|岡《おか》|野《の》の誕生日にプレゼントくださったみなさま、ありがとうございました。 「もう誕生日で喜ぶ|歳《とし》じゃない」なんて言ってたんですけど、やっぱり、こういうのってうれしいものですね。  本当にありがとうっ[#「」はハートマーク Unicode="#2661"] どれも大切にしますね[#「」はハートマーク Unicode="#2661"]  いただいたテディベアのぬいぐるみは、仕事中、岡野の|膝《ひざ》にのってます。かわいいので、|溺《でき》|愛《あい》してるのだ。  あと、アーサー・セオドア・レイヴン氏のファンのみなさまから、セオドアの愛称テディにちなんで、テディベアの|一《いち》|輪《りん》ざしをいただきました。なんだか、今年は|熊《くま》づくし(笑)。  でも、本当にあまりお気になさらずに。感想のお手紙いただければ、それで充分です。  感想のお手紙といえば。 「覚えてらっしゃらないでしょうが、私、××県の〇〇です」って、二回目以降のお手紙の冒頭に書いてくださるかたも多いんですが、|岡《おか》|野《の》は、お手紙くださるかた全員のお名前と、それが何回目のお手紙かも、だいたい覚えてます。  だから、安心していいです。どんなお手紙も、ちゃんと読んでますから。  お手紙くださったかたには、ペーパーをお送りしてます。  気力と体力が充実している時には、全員に岡野の選んだ|紅《こう》|茶《ちゃ》を|強《ごう》|引《いん》にプレゼントするという、|迷《めい》|惑《わく》な|突《とっ》|発《ぱつ》|企《き》|画《かく》もやってます。初回は、フォションのサクラティーでした。 「桜アンパン味」などと、ロマンのかけらもない発言(笑)をしてくださったかたもいたそうですが、おおむね好評のようです。  昨年の秋に、京都へ行ってきました。  四巻は、京都のお話です。  サブタイトルは『月の|魔《ま》|天《てん》|楼《ろう》』。  |退《たい》|魔《ま》|物《もの》を書くなら、一度はやってみたかった修学旅行編です。  といっても、京介はかわいそうに、入院中だったため、修学旅行に行きそこなってしまうのです。で、智が「じゃあ、京介が元気になったら、オレと二人で修学旅行に行こう」というわけ。  そして、京都駅前に立った二人の目の前には、|妖《あや》しい超高層ビルが……。  日本全土を|席《せっ》|巻《けん》する新興宗教・〈火炎の真理教〉。  その教祖となった|緋《ひ》|奈《な》|子《こ》が、智に最後の戦いを|挑《いど》む!  実体化する|降《ごう》|魔《ま》の|利《り》|剣《けん》・|天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》。  完全に|妖獣《ようじゅう》となってしまった鳴海京介の心は、|何処《い ず こ》に!?  |乞《こ》う御期待!  ……という感じです。  もっとも、二巻で「祖父母によって明かされる智の過去とは!?」なんて予告しといて、智の過去、ぜんぜん書いてない|奴《やつ》なので、四巻の予告にも、あまり信頼はおけない(笑)。  それにしても、たまたま立ち寄った|清《きよ》|水《みず》|寺《でら》の隣の|地《じ》|主《しゅ》|神《じん》|社《じゃ》は、すさまじいところでした。  何がすごいといって、京都最古の|縁《えん》|結《むす》びの神様だけあって、縁結びグッズが充実してるんですよね。  社務所で売ってた、オープンハートのなかに鈴が入った金銀ペアの恋のお守りには、くらくらきてしまいました。最近の神社って、さばけてるというかなんというか。神社のお守りには、お守りらしくあってほしいと思う私って、保守的な女なんでしょーか。  でも、|召魂《しょうこん》の鈴と|召魔《しょうま》の鈴がこんなんだったら……すっげぇ|嫌《いや》かも。京介と|時《とき》|田《た》|忠《ただ》|弘《ひろ》氏が、オープンハートのペアの鈴を振る姿って……想像したくないわ。  最後になりましたが、担当の小林様、いつもお世話になっております。今年もよろしくお願いいたします。  そして、|麗《うるわ》しいイラストを描いてくださいました|碧《あお》|也《また》ぴんく様。いろいろな意味で、勇気をありがとうございます。『|八《はっ》|犬《けん》|伝《でん》』がんばってくださいね。私も、私の場所で全力をつくします。  |校《こう》|閲《えつ》|部《ぶ》のご担当者様、あいかわらずお手数をかけております。今後ともよろしくお願いいたします。  それから、思いがけなくも、この三巻に貴重なアドバイスをくださいました、|久《く》|美《み》|沙《さ》|織《おり》先生、|波《は》|多《た》|野《の》|鷹《よう》先生、本当にありがとうございました。「和風サイキック・ホモ・アクション」というかっこいい(笑)形容をしてくださった波多野先生には、感謝の言葉もありません。  そして、この本をお手にとってくださった読者様。  |魔《ま》の|集《つど》う|街《まち》・|鎌《かま》|倉《くら》へ、ようこそ。 〈|闇《やみ》|送《おく》り〉の特等席を用意して、お待ちしております。  智や京介と一緒に、|波瀾万丈《はらんばんじょう》の冒険をお楽しみください。  では、次回、『月の|魔《ま》|天《てん》|楼《ろう》』で、またお会いしましょう。 [#地から2字上げ]|岡《おか》|野《の》|麻《ま》|里《り》|安《あ》   〈参考図書〉 『悪魔の事典』(フレッド・ゲティングス・青土社) 『天翔る白鳥ヤマトタケル』(小椋一葉・河出書房新社) 『延喜式祝詞教本』(御巫清勇・神社新報社) 『陰陽道の本』(学習研究社) 『神奈川県の歴史散歩』(下)(山川出版社) 『神奈川の伝説』(永井路子/荻坂昇/森比左志・角川書店) 『鎌倉』(昭文社) 『鎌倉謎とき散歩』古寺伝説編[#「古寺伝説編」に傍点](湯本和夫・廣済堂文庫) 『鎌倉の寺』(永井路子・保育社) 『鎌倉文学散歩』(安宅夏夫・保育社) 『鎌倉・歴史の散歩道』(安西篤子監修・講談社) 『現代こよみ読み解き事典』(岡田芳朗/阿久根末忠編著・柏書房) 『詳説佛像の持ちものと装飾』(秋山正美・松栄館) 『湘南 最後の夢の土地』(北山耕平/長野真編・冬樹社) 『神道の世界』(真弓常忠・朱鷺書房) 『神道の本』(学習研究社) 『図説鎌倉歴史散歩』(佐藤和彦/錦昭江編・河出書房新社) 『図説日本の妖怪』(近藤雅樹編・河出書房新社) 『世界宗教事典』(村上重良・講談社) 『日本の呪い』(小松和彦・光文社) 『日本の秘地・魔界と聖域』(小松和彦/荒俣宏ほか・KKベストセラーズ) 『能のデザイン』(増田正造・平凡社カラー新書) 『能をたのしむ』(増田正造/戸井田道三・平凡社カラー新書) 『仏教語ものしり事典』(斎藤昭俊・新人物往来社) 『梵字必携』(児玉義隆・朱鷺書房) 『密教の本』(学習研究社) 『図説・民俗探訪事典』(大島暁雄/佐藤良博ほか編・山川出版社) 『図説・歴史散歩事典』(井上光貞監修・山川出版社) |炎《ほのお》の|魔《ま》|法《ほう》|陣《じん》 |銀《ぎん》の|共鳴《きょうめい》3 講談社電子文庫版PC |岡《おか》|野《の》 |麻《ま》|里《り》|安《あ》 著 (C) Maria Okano 1996 二〇〇一年七月十二日発行(デコ) 発行者 野間省伸 発行所 株式会社 講談社     東京都文京区音羽二‐一二‐二一     〒112-8001